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子どもはどこで、何を学ぶのか【『プラハのシュタイナー学校』読後感想】

どうも、「無気力」です。

『プラハのシュタイナー学校』という本を読んだ。

そもそも僕が「シュタイナー教育」という言葉を初めて聞いたのは、主が高校生の時。

スピリチュアルから派生して、現行の教育制度とは一線を画した、もっと自由な気風の教育方法とその学校があるらしいことを知ったのだ。

その時は「シュタイナー教育」という名称と「なんか良さそう」という漠然とした印象だけを抱いた。

それからおよそ7年が経った今、記憶の中に沈んでいた「シュタイナー教育」を思い出したのだ。

日本にもあるというシュタイナー学校に入学することは肉体年齢的に難しいだろうが、本で理念ややることを学んで、僕が「パニック少年」にシュタイナー教育的なアプローチで接するのには役に立つ。

僕たちがもっと創造的になれればうれしいと思った。

『プラハのシュタイナー学校』の印象

この本は、著者である増田幸弘氏の体験談だ。

家族を立て直すためプラハに移住し、子どもたちをシュタイナー学校に入学させたらしい。

日本との教育の違い、類似点、教育、ひいては子育て・生きることの本質まで考えさせられる、範囲の広い本である。

ボリューミーに聞こえるかもしれないが読みやすい文章と作りなので、気づけば何十ページも読み進められる有意義な本だ。

「シュタイナー教育」という名前の弊害

本文中でも言及があるのだが、日本で「シュタイナー教育」と呼ばれているこのアプローチは、海外では「シュタイナー教育」と呼んでも通じないらしい。

ルドルフ・シュタイナーが始めたのはドイツの「自由ヴァルドルフ学校」であり、「シュタイナー学校」ではなかった。

それが日本に入ってくる時に「シュタイナー教育(学校)」と呼ばれるようになったのだろう。

これは私見だが、今からでも呼び名を改めた方が良いと思う。

精神に重きを置いたアプローチや瞑想的な時間も設けるシュタイナー教育は、「シュタイナー」という人名が課されているところから、宗教団体的な見方をされる可能性があるからだ。

実際にはシュタイナー学校に特定の宗教を礼賛するような授業や時間はないとのことなので、余計な先入観も甚だしい。

シュタイナー教育の恩恵を受ける人、興味関心を持っている人、周辺で批判したい人全員にとって、宗教的な目で見られるのは利益にならないことだと思う。

ともあれ今の僕にできるのは、「シュタイナー教育は宗教ではないし、シュタイナー教育と呼ぶのは日本だけ」とここに書き記すことだけである。

理想と現実の折り合い

日本の教育制度は問題だらけだと思う。

というか日本は問題だらけだ。

世界の国それぞれが、独自の問題を抱えている。完璧な国はおそらく、今のところない。

だからこそ「今までとは違う教育」「主流でないやり方」がものすごく良いものに見えて、闇雲に信奉したり、傾倒して今までのやり方すべてを否定したくなったりすることもある。

シュタイナー教育に対して、僕もそんな見方をしているきらいがあった。

つまり、僕が不満を抱く現行の教育制度よりずっと良いもので、現代の諸問題をすべて解決してくれる素晴らしい方法なのではないか……と思っていたのである。

『プラハのシュタイナー学校』を読んだことで、その期待は良い意味で砕かれた。

プラハにはプラハの教育界が抱える問題があり、それに異なるアプローチで対処しようとする無数の先生たちがいる。

シュタイナー学校に入ったからすべて完璧というわけではなく、その中でも模索し、改善していくことが必要なのだ。

現実的な体験談を手にできたことは、夢を見せられすぎないという点でとても良かったと思う。

シュタイナーだけに傾倒せず、バランスよくいいとこどりをしていく態度で向き合えるからだ。

ちょっと苦言「パニック少年」の不満

内容は充実しており良い本だったのだが、「パニック少年」が不満を感じたところがあるので一箇所取り上げたい。

本書の169ページ。読書についての話題で、こんな記述がある。

うなずくだけだったツドイは家に帰ると夢中になって読みはじめた。もちろんすべてチェコ語で、内容も複雑だ。どこまでわかっているのだろうとつい疑ってしまったが、ツドイはいつも本を持ち歩き、読んでいた。

僕たちは「子どもだから」という理由で見くびられる瞬間を何より嫌悪している。

「何も考えていないんじゃないか」「言っても分かっていないんじゃないか」

子どもを無知にしているのは(自称)大人のそのような態度だと、強く述べたい。

親が「どこまでわかっているのだろう」などと疑う無意識の思考が積み重なると、子どもはそれを敏感に感じ取る。

そして「親に信頼されていない」さらに進んで「信頼されていない自分は駄目だ」という根底的な自己否定観を抱え込むことにつながる。

子どもの成長は、成人が新しいことを覚えるよりはペースがゆっくりかもしれない。

しかしそれぞれのペースで少しずつ進化しているわけで、興味を持ったものに大人が「どこまでわかっているのか」と疑問を抱くのははっきり言って失礼だ。

他にも何カ所か、著者が親として子どもをあまり信頼できていないような書き方が目に入ったので、そこは少し不満が残るところだった。

「子育て」→「子どもとともに育つ」

だがこの本にも、他の多くの育児本にも書かれているように、子どもを信頼すること、子どもも親とは違う独自の考えを持ち成長していることに気づかされるプロセスそのものが「子育て」と呼ばれるライフステージではないかと思う。

最初から完璧にできる親なんていないし、「自分は何も間違っていない」と思い込んでいる親がいちばん危険だと僕は思う。

著者の方が子どもを疑うような書き方をしたのも、ある種日本風の謙遜が表に出ただけなのかもしれない(これも子どもにとっては良くないが)。

本書の結びとして、シュタイナー学校に積極的に関わったことで何を感じたかが書かれていた。そこには深く共感するものがあった。


漠然と「良さそう」と思うことと、情報を集めて知識を深め、自ら体験したあとに「長短あるけど、自分に合う」と思うこととはまた違う。

僕はまだシュタイナー教育について知りはじめたばかりなので、これから他の本も読んで知識を深めていきたいと思った。


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