高度な構成に気持ちが乗っていく【町屋良平著『1R1分34秒』】
第160回芥川賞を受賞した作品『1R1分34秒』を読みました。
内観の解像度が高い
物語は、主人公「ぼく」の一人称視点で進行します。
作品全体にちりばめられているのは、「ぼく」の目を通して見た世界と、「ぼく」が考えていること。
作中でも言及されているように、「ぼく」はものすごく頭の回転が速く、ひとつ対象を見ればそこから次々に発想していける人のよう。
自分自身についての思考が、目に飛び込んできた景色によって他へ逸れて、また自分のことに戻ってくる……。
自分の考えに沈んでいる時にありがちな思考の流れが、客観的な地の文との区別も曖昧なまま次々に展開されていき、思考の流れについての共感がすごくありました。
自分の考えていること、感じていることを文章に落とし込むって案外難しくて、文章が思考に寄るのか思考が文章に寄るのか……。
文章を書くことが身近になると、区別がつきづらいところ。
書いている時は、「感じたことをそのまま書けている」と思うのに、後から読み返すと上っ面ばかりで、何も真に迫ってくるものがなかったり。
自分の文章について感じていることです。
だからこそ『1R1分34秒』は、内観に対する解像度がものすごく高くて、作者さんの技能の高さを思い知りました。私に同じことはできない。それが個性。
すごすぎる。
また、一口に「解像度を上げる」と言っても、方向性はいくつもあると感じていて。
『1R1分34秒』は、「ぼく」が感じていることをひたすら言語に落とし込んで話していくスタイルでした。「ぼく」の周囲には、言語化を助ける環境が整っていましたから。
ひるがえって自分の書き方はどんなだろう? と考えてみると、私は身体感覚の描写を挟みがちです。
「○○ということを考える時って、肩に力が入るよなぁ」とか、「温かい気持ちに触れて、背中が緩む感じ」とか。
これも書く人の数だけ方向性があると思っていて、自分とは方向性が違う書き方だからこそ驚かされました。
「こんなやり方があるのか!」って。
自分の気持ちを「たのしい」「かなしい」「いらいらする」というシンプルなものに落とし込むことすら時々難儀する私にとっては、「ぼく」レベルの深掘りはまだまだ難しいスキル。
文章の書き方のみならず、個人的な言語化の勉強にもなりました。
物語の構成が高度すぎてすごい
つながらないシーンがつながっていく
もうひとつ「すごい!」と思わされたのは、この作品のシーン展開。
序盤、短いシーンが断片的に展開していきます。
私なんかはシーン展開がものすごく苦手なので、ついつい注目しながら読むことが多いんですけど、『1R1分34秒』は
「え、ここで切っちゃうの?」と思わされるところが多かったです。
とはいえ話についていけなくなることはなく、次のシーンを2、3行読めば、「今、この人と話しているのかな」「今、こういう場面かな」と想像がつき、想像した次に目に入ってくる文章でそれが裏付けられる感覚があります。
読んでいてストレスが少ない。すごい。
※ネタバレ注意
読み終えた今、振り返ると、序盤の短いシーン展開には、当初考えていたよりも深い意味があったのかもしれません。
私は町屋さんの作品を初めて読んだので、最初、こまめなシーン展開は作者さんの書き方のクセではないかと考えていたのです。
ところが、物語が進行するにつれてシーンは連続的になっていき、むしろ切れる方が少なくなっていきます。
あれは何を表していたのか。
思うに、シーン展開そのものが「ぼく」が知覚する世界を表していたのではないでしょうか。
「ぼく」は減量の影響で、前回の試合前の記憶が朦朧としている様子です。
また、人生に意義を見出せずにいます。
自分の内側にこもり、いろいろ考えこんでいる状態。
心が「今、ここ」にない。
それは精神的な問題だけではなく、「ぼく」の場合は減量する必要があるという、身体的な事情もあります。だからこそ、余計に心を「今、ここ」につなぎとめておくことが難しい。
体は疲れるとネガティブになり、エネルギーの使用を控えようとするからです。
シーンが細切れになる序盤は、「ぼく」が日常生活に興味を持てていない証。
日々を送っていたのだろうけれど、記憶に残っている場面だけを取り上げた感じだと思います。
仮にバイト中のシーンがあったとしても、「バイトに行く途中」や「バイトが終わった時」は記憶にないから、書かれない。
女の子と「いつ会った」のかは覚えていないから、「もう会っておしゃべりをしている」ところだけがシーンとして切り取られる。
逆に後半のシーンが連続的になり、切り替えが減っていくのは、それだけ「ぼく」が地に足つけていられる時間が増えてきた表現だと感じます。
減量期間に入ってきてはいるけれど、前回の試合前とはいろいろな意味で環境が違う。
心持ちが違う。
世界を見る目が違う。
だからこそ記憶が連続的になり、気持ちが前向きになり、日々を覚えていられるのです。
物語の終わり地点の設定がすごい
さらに印象的だったのは、物語の終わり方。
「えっ! ここで終わるんだ」と意外に思いました。
個人的には、『俺の残機を投下します』みたいに、入念に準備してきた試合の展開や、その先まで描くのかなと思っていたのです。
ところが、そうではなかった。
逆に言えば、ここで『1R1分34秒』を終わらせるというのは、ものすごい高等技術じゃないかなと感じています。
例えばですが、ボクシングもので、
「試合で勝てないボクサーが、努力の末にポジティブに変化して、次の大会で優勝する!」
というあらすじは、ある種簡単に書けると思うのです。(上のような展開の作品を否定・卑下する意図はないです)
物語を盛り上げる上で、展開のつけかたが分かりやすくてスムーズですよね。
始まりには冴えない感じだった主人公がいたとして。
主人公が物語の中盤で努力したり、いろいろな人との出会いや別れを経験して。
大会で優勝する。(あるいは、積年のライバルに勝利する)
など。
物語のクライマックス、つまり一番の盛り上がりを、「ボクシングの大会」にぶつけてしまうわけです。
非日常の、特別な舞台となれば、自然と読者の気持ちも盛り上がるし、試合の中で生まれるドラマの効果も高まります。
ところが『1R1分34秒』は、そうではない。
この「試合効果」とでも呼べそうな場面展開を使わない、そもそも大会を書かずに終わる、ということはつまり、別の手段でクライマックス/いちばんの盛り上がりを創造してしまうということです。
大会の熱気に頼らずに、熱気を作り出してしまう。
盛り上がる大会を書くのにも技術が要るし、別のところに盛り上がりをつくるのはもっと難しい気がします。
『1R1分34秒』では、それが実現されている。すごい。すごすぎる。
「これが芥川賞か……」と、背の高いビルでも見上げるような気持になりました。
代わりに泣いてくれてありがとう
折しも、私が『1R1分34秒』を読んでいたのは、気持ちが落ち込んでいた時期。
作中では「ぼく」も落ち込んでいました。
「ぼく」が無気力になり、葛藤し、自問し、新しいやり方を試し、感情的になる場面を見守るうちに、読者である私も共感し、一緒に元気になっていくことができました。
文章では心情を緻密に描くことができるからこそ、マンガや映画とはまた違った共感力が働くと思っています。
「ぼくが」
ウメキチの頭頂部に、公園の土に大粒の涙をおとした。地面が黒く濃くなった。
くらい泣いてくれたことで、まるで自分の代わりに涙を流してくれているような、「ぼく」の涙と一緒に自分のもやもやも流れていくようなすっきり感をもらえました。
人って成長するにつれてなかなか泣かなくなり、「泣くことは恥ずかしい」「泣くことは子どもっぽい」と思って遠慮しがち。
あるいは、実際に涙が流れるほどまで感情が動く出来事が減っていきがち。
だからこそ、作品の中で誰かが大泣きすることで、その主人公に気持ちを合わせることで、自分の気持ちの浄化もできるのかな、と感じました。
爽快感あるラストのお陰で、読み終えた私はまた元気いっぱい。
代わりに泣いてくれて、気持ちに寄り添わせてくれてありがとう。
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