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あんなにさっぱり「嫌い」を認識できたなら【鬼滅の刃『無限列車編』感想】
こんにちは。亜麻(ああさ)です。
めちゃくちゃ遅ればせながら、観ました!
『鬼滅の刃 無限列車編』。
見終えたばかりでこの記事を書いているので、頭の中ではまだエンドソングが流れっぱなし。余韻に浸りっぱなしです。
心うごかされるところがたくさんあるので、順を追ってひとつひとつ書いていきたいと思います。
あ、事前に私の鬼滅知識について補足しておくと。
・炭治郎立志編を視聴済み
・原作コミック23巻(のみ)読了
・解説サイトでおおまかなあらすじを知っている
という知識を持った上で無限列車編を観ています。
理解しきっていないことがあっても悪しからず。誠意をもって書いてます。
映像美がすごすぎた
以前は浴びるようにアニメを見ていたのに、最近は遠ざかっていました。
久しぶりに見たアニメ(鬼滅の刃)は、映像が綺麗すぎる!
木の葉1枚1枚のざわつき、月明かりの綺麗さ、雲の立体感、蒸気機関車の緻密なパーツの動き。
すべてに「おおおっ!」って見入りました。
綺麗な景色に心を洗われるタイプの人間なので、ストーリー進行はもちろんのこと、眼福という意味でも良い時間を過ごした感じがしています。
音楽が良すぎた
鬼滅の刃を見るといつも思うんですけど、音楽がすごく良いですよね!
善逸が技を放つとテクノっぽい音楽に切り替わったり、戦闘が猗窩座ペースで進む時は猗窩座のテーマ風の曲が流れて、煉獄さんが巻き返したら曲が終わって……。
映像とBGMの組み合わせがすごく効果的で、耳に嬉しいんです。技術の高い、こだわって作られたものであることを感じさせてくれると言うか。
高校の頃、音楽の授業で「映像と音の融合が良い」という先生のプッシュで、音楽室でディズニー映画『ノートルダムの鐘』を見たことがあります。
その時に映画を「映像と音の融合」という観点で見ることを覚えたのですが、無限列車編はその観点を知っていて良かったと思わされる映画でした。
初見だと映像・音・セリフなど注意を向けるべきところがたくさんあって忙しいので、音に特に注意を向けながら、2周目・3周目と繰り返し見たいと思いました。
禰豆子の圧倒的かわいさ
それにしても、禰豆子ちゃんはとってもかわいい。
頭突きしても炭治郎が起きない&おでこ痛いでしくしく泣いているところなどは、思わずキュンとしちゃいました!
また、彼女は善逸の夢にも伊之助の夢にも登場し、なんだかんだでみんなから好かれている空気が感じられたのも良かったです。
また禰豆子の夢への登場の仕方で、善逸と伊之助の感覚の違いが感じられたことも興味深いと思いました。
善逸――鋭い聴覚恐るべし
善逸の夢では、禰豆子は普通の人間サイズで、人間で、竹をくわえておらず普通におしゃべりしています。
禰豆子が普通に話せた頃、善逸はまだ炭治郎と知り合っていなかったはず。
そんな善逸が禰豆子の声を知っているのは、ひとえに彼の鋭い聴覚によるものではないでしょうか。
禰豆子は始終無言を貫いているわけではなく、うなり声(?)によって機嫌や意志を表明します。
その声を数少ない手がかりとして、善逸は「禰豆子ちゃんが話したらこんな感じの声なのかな」というのを、意識下で構成しているのではないでしょうか。
そして当たっている!
聴覚恐るべしです。
伊之助――リーダー伊之助は子分が欲しい
対する伊之助の夢に登場する禰豆子は、厨子に入っているデフォルメされた小柄な姿。しかもウサギ。
あれは伊之助が視覚優位であることを表現しているのではないでしょうか。
善逸が特に「聴覚」で世界を知覚するのに対し、野生の勘が鋭い伊之助は禰豆子のことを「自分より小さきもの」と見なしているのかもしれません。
あるいは、小さくなった禰豆子のことを「かわいい」と感じたのか。
ともかく善逸と伊之助が、禰豆子のどこに着目しているかがよく分かる、面白いシーンでした。
煉獄さんと私たち
最初、煉獄さんが嫌いだった
正直な見出しをつけました。
煉獄さんファンの方、ごめんなさい。
でも最初は本当にそう思っちゃったんです。
煉獄さんが本編に初登場するのは柱合会議の時ですが、あの時は煉獄さんについて何も知らず、第一印象から「ポジティブだけでできた薄いやつ」だと思ってしまいました。
そして私たちはそういう人が苦手なんです。
ネガティブを知らずに口にする「なんとかなる!」と、ネガティブを知った上で放つ「なんとかなる」という言葉は、込められたものの密度が違うから。
よく知らないことを口にする時、言葉は軽々しく薄っぺらくなってしまうから。
黒執事のセリフを借りるようですけど、スフィア・ミュージックホールに初めて潜入した坊ちゃんとセバスみたいに、『気味が悪い』と思ってしまったんです。
今はそのイメージは払拭されています。
見た目で人を判断してはいけませんでした。
そういえば、私は前にも同じことをしたような。
FF13に登場するスノウ・ヴィリアースも、まっすぐな愛情が暑苦しく前面に出るせいで脳筋だと思い込んでしまって……。
煉獄さんに対して、第一印象2度目の失敗をしてしまった。
しかし様々な情報を得るうちに、そんな煉獄さんへの印象も変わっていきました。
そしてついに「無限列車編」を観たことで、人聞きではない煉獄さんの姿を、私もようやく掴みはじめた感じがしています。
底抜けに明るくて豪快だけど、決して向こう見ずではない。
場面と状況に応じて本音と建前を使い分け、潜入が必要な時は弁当片手にしれっと嘘の肩書を使える。(つまり頭が良い)
状況の把握が早く、的確に指示を出すことができる。
謙虚に自分を反省することができる(「穴があったら入りたい!」)
よもや、よもやだ。(言いたかっただけ)
そんなわけで、さすが柱。
煉獄さんは炭治郎たちから見て、すごくできる上司(先輩)だったわけです。
ヘンな先入観持っててすみませんでした。
害意のない感情表明に憧れる
煉獄さんに対して印象的だったことは多々あるのですが、そのひとつがこの観点。
煉獄さんは必要な時、素直な感想をすぐ口に出す印象を受けます。
ごはんが美味しい時とか、炭治郎に聞かれたことについて知らない時とか。
変な期待や誤解を招かず済むという点で、見習いたい行動だなと思いました。
さらに見習いたいと思ったのは、この素直な言葉がマイナスの内容に転じた時。
煉獄さんは猗窩座に対してはっきりと「俺はお前のことが嫌いだ」と言い放ちます。
しかしその口調は至極さっぱりしており、嫌悪や憎悪を感じないのが不思議なところです。
本当に、憎んでいないのだと思いました。
ただただ自分の感じたことを、「自分はこう思う」と口に出しただけ。
煉獄さんが猗窩座のことを嫌いだからと言って、猗窩座に消えて欲しいと思っているわけでもなく、仮に世の中に「猗窩座のことが好き」という人がいたとして、その人の価値観を否定するわけでもない。
あくまでも猗窩座のことが嫌いなのは「俺」なので。
このさっぱりした感情表明が、私にはとても眩しく見えました。
未知のもの、よく分からないもの、不快なものは視界から排除したい、なかったことにしたいと思ってしまう人間らしい心を、私も持ってしまっているから。
でも私が嫌いな食べ物は、誰かの大好物かもしれなくて。
好き嫌いはあくまで主観的な価値判断なので、誰かに強制したり、それを理由に何かを攻撃する根拠にはなりえないと思うのです。
でも、だからといって自分が嫌悪を抱くという感情まで無視するのも、自分をないがしろにしてしまうという点で違うと思っていて。
煉獄さんの発した、淡々とした「嫌い」の言葉は、単なる表現として完成された言い方、表し方だと思いました。
名台詞が過ぎて記憶が飛んだ
そしてなんといっても印象的なのは、終盤に語られる煉獄さんのありがたいお言葉たち。
あまりにも印象的すぎて、逆に「すごく示唆のある話だった」というざっくりした印象しか残っていません。
これが1周目の私の記憶力か。
すごく今の私に必要な言葉で、心を支える柱の一本にしたい言葉で、ぜひとも覚えておきたいから、これから映画を何回も見返したいと思います。
何かの停滞を感じている人、がんばる一押しが欲しい人。
1日のうちの2時間を画面の前にすわって、煉獄さんの活躍を追ってみるのはどうでしょう。
そのさっぱり毅然とした姿から、得られる活力とインスピレーションがきっとあるはずです。
少なくとも私はエネルギーをもらったから、人にも「良かったよ」ということを伝えたくなりました。
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