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【短編】11時のぼくら

遅めの朝ごはんを食べ終えたぼくたちを、姉ちゃんが食卓に引き留めた。

リビングに掛けられた時計は午前9時少し前。お皿を下げようと立ち上がりかけたぼくは、どこか張りつめた「待って。話したいことがある」の声で椅子に座り直した。

姉ちゃんに話しかけられると、少し緊張してしまう。

姉ちゃんは県外の大学に通っていて、数年ぶりに帰省してきて一緒に夏休みを過ごしていた。帰ってくる前はあれこれとわくわくしていたぼくだけど、いざ顔を合わせると緊張してしまって、なかなか自然に接することができなかった。姉ちゃんが家にいない、ぼくとお父さんお母さんの3人暮らしにすっかり慣れてしまっていたのだ。

4人で囲む、少し狭い気がする食卓にようやく慣れてきたところだったのに、姉ちゃんは今日の午後帰ってしまう。最後の日に張りつめた顔をする姉ちゃんから、大事な話が出そうであることはすぐに分かった。

窓の外はどんどん眩しくなり、アブラゼミも鳴きはじめている。外に広がる晴れやかな夏の気配は、姉ちゃんの真剣さとどこかちぐはぐだった。

ちらと盗み見た左隣の姉ちゃんは、膝の上で拳をつくった両手をぎゅっと握り、肩をこわばらせてうつむいている。滑らかな髪質のショートヘアが顔に流れて、表情を隠していた。

「何? そんなに改まって」

同じく席を立ちかけていた、お母さんとお父さんも席に戻った。全員の視線を一身に浴びた姉ちゃんは、握りしめていた拳に一層力を込める。

それなのに、なかなか話しはじめない。

唇が、何度か言いだそうとして開き、閉じられた。そのたびにためらうような息だけが漏れる。その音まではっきり聞こえるくらい、ぼくたちは静かに姉ちゃんに注目していた。

話しだすのに勇気がいるなら、この注目に耐えるのにもまた勇気がいるのだろうか。

どちらかを選ぶならと、姉ちゃんは思いきったように口を開く。ぼくたちは姉ちゃんの告白に驚かされることになった。

「実は……私、トランスジェンダーなんだ」

「……え……?」

驚きと、戸惑いをはらんだ沈黙が朝の空気を切り取って凍りつかせる。顔を見る前から――見ればますます、お父さんとお母さんが困惑していることがよく分かった。

一方のぼくは、夏休み直前に受けた特別授業のことを思い出していた。


時間割には「特別授業」と書いてあるばかりで、ぼくたちは誰ひとり、今日なにをやるのか知らされていなかった。だからこそ、ぼくたちの期待感は抑えようもなく高まっていた。先生に何度注意されても、さざ波のようなおしゃべりがあちこちで起こって止まらない。

もしかして、有名人が来るんじゃないか? 急に芸能人とテレビカメラが入ってきて、生徒たちが湧きたつ――テレビでよく見る光景が、これから目の前で起こるんじゃないか。でも、この学校に来るような縁のある有名人なんて、いたっけ……?

「それでは、授業を始めます」

号令が終わったのとほとんど同時に、ひとりの見慣れない大人が廊下の角を曲がってやってくるのが見えた。

列の前から後ろへと、戸惑いの波が起こって押し寄せてくる。ぼくもその人をじっと見つめた。

あの人……何か「違う」。

遠目から見た時、ぼくはあの人を「男の人だ」と思った。

けれど動揺のさざ波とともにその人が近づくにつれて、ぼくは自分の抱いた第一印象に疑問を抱いた。

本当にそうだろうか?

けれど、いや……。どう判断すれば良いか分からない。

その人は太めのズボンを履いて、涼しげな水色のシャツを着て、短い髪をしていた。ぱっと見は男の人のようだけれど、こんにちはと言った声はそこまで低くなく、むしろ女の人の声と言っても通じそう。

「こんにちは。今日講師を務めさせていただきます、佐藤まおです。僕は女性に生まれ、男性の心を持つトランスジェンダーです」

明るくよく通る声でまお先生と名乗ったその人は、ニュースで聞いたことのある、けれどもよく意味の分かっていなかった単語を口にした。

まお先生の挨拶に合わせて、先生が背後のホワイトボードに大きく文字を書きはじめる。

特別授業:性の多様性

「今日はよろしくお願いします」

はきはき話して、一礼するまお先生につられるように、ぼくたちもおずおずと頭を下げた。


「……何なのそれ……」

「つまり、体と心の性別が一致してないってこと」

「……」

お母さんは小さな呟きを漏らしたきり押し黙り、代わるようにお父さんがわずかに身を乗り出す。

「ええと。琴梨ことり。お前は女だけど、心は男という、ことかい?」

「そう」

ためらいがちに発せられた問いに、食いつくような素早さで姉ちゃんは頷く。疑いの余地はなく、その通り――姉ちゃんの自意識をはっきり示す返事だった。

「それは、いつから?」

「昔から。ずっと悩んでたんだけどさ……前は知識がなくて、自分の方が変なんだと思ってて」

最初こそ硬かった姉ちゃんの言葉は、話すうちにどんどん滑らかになっていく。

「5歳の七五三の時、着物を着る前に泣いたのを覚えてる? 本当は振袖を着るのがすごい嫌で。あの時は上手く言葉にできなかったし、どうして嫌なのかも説明できなかったんだけど……。普段の服もピンクにリボンにフリルとか、『女の子らしい』ものばっかり渡されて、それを着なきゃいけないのが本当、しんどかった」

「やめて、琴梨」

「……そんなに昔からだったのか」

お父さんは素直に驚いていた。

「おれはてっきり、中高生になった辺りからだと……」

ふとひらめたいように目を上げた。

「もしかして、それで髪を切ったのか」

「うん、そう」

姉ちゃんはこれにもはっきりと頷いた。

これはぼくが生まれる前の話だから直接見たわけではないが、昔、姉ちゃんはお母さんからの言いつけで髪を伸ばしていたらしい。アルバムには、腰のあたりまでまっすぐ伸びた髪の姉ちゃんが、幼稚園の制服やランドセルとともに残っている。

けれど姉ちゃんにとって長い髪は、あまり好ましいものではなかったらしい。

髪を切りたいと頼んでお母さんに断られた後、当時小学四年生の姉ちゃんは裁ちバサミで自分の髪を切ってしまったのだ。

鏡を見るという思いつきもなかったらしく、綺麗に揃っていた毛先はジグザグになった。見つけたお母さんは半狂乱になって家は大混乱だったというが、仕事から帰ってきたお父さんが間に入って落ち着かせ、姉ちゃんはようやく髪を整えに美容室に行くのを許されたという。

以来、お母さんは姉ちゃんの髪型についてはとやかく言わなくなった。小、中の卒業アルバムには、ショートカットで比較的明るい顔の姉ちゃんが収まっている。

この話はお母さんにとって相当ショックだったようで、ぼくはお父さんから聞いて知っていた。

「当時は『女の子らしくしなきゃいけないのが、なんかイヤ』っていう漠然としたことしか思えなくて、トランスジェンダーっていう言葉も知らなかったから……私、がおかしいのかなって思ってた。でも大学に入って、同じように感じる人が他にもたくさんいるって分かってからは、あの時どうして嫌だったのか、自分で自分の気持ちが理解できて、人にも説明できるようになったんだ」

「じゃあ成人式の時に帰ってこなかったのも、そのせいか」

お父さんが重ねて問う。姉ちゃんはさすがに歯切れ悪くなったが、ただ黙って頷いた。

これはぼくも実際に覚えていることだった。今から2年前、姉ちゃんの成人式の時。家にはレンタル振袖のチラシがたくさん届くようになって、印刷されたかわいい振袖を見てお母さんの方がうきうきしていたほど。しきりと姉ちゃんに電話をかけて、振袖を選びに帰ってこいと催促していた。電話の向こうの姉ちゃんはあまり乗り気ではないようなのが、傍で聞いているぼくにも分かった。受話器からはくぐもった「いいよ、スーツで」とか「勉強が忙しいから、帰れるか分からない」という消極的な返事ばかりが返ってくる。ところがお母さんの勢いに押されるように一度帰省してきて、一緒に振袖を選びに出かけて行った。借りた振袖は当日まで大切に家にしまっておかれた。

けれど成人式当日になっても、姉ちゃんは帰ってこなかったのだ。

借りた振袖が無駄になった、琴梨が着ているところを見られなかったと、お母さんは涙混じりに電話で文句を言った。姉ちゃんはやはり歯切れ悪そうに、何か言い訳を並べていたっけ。

借りた振袖は箱から出されることもなく、そのままレンタル店に送り返されていった。

「……あれは、ごめん。一生に一度しかない記念の日だから、頑張って母さんに合わせようとしたんだ。直前まで考えて……。でも、どうしても嫌で。本当はあの時にカミングアウトしようと思ったけど……言い出せなかった。だから帰ってくる勇気も出なくて……向こうで仲間と一緒に、自分たちだけの成人式した。スーツで。LGBTのサポートをしてるNPOを手伝っててさ。大学生の友達もいて、実家に帰れない子もいて。だからその子たちと一緒に」
そうだ、と思い出したように呟いて、足元に置いたリュックを探る。姉ちゃんはパンパンに膨らんだリュックひとつで身軽に帰ってきて、今朝もう荷造りを終えていたのだ。

取り出したのは、虹色の模様が描かれたクリアファイル。中から同じパンフレットを3冊取り出した。

「これ、そのNPOが発行してるパンフレット。トランスジェンダーのこととか、分かりやすくまとまってるから読んでみて」

お父さんとお母さん、それからぼくにひとつ1冊ずつ。素直に開いてページを眺めるぼくに励まされたように、お父さんも思いきってパンフレットを手に取った。


まお先生が合図すると、先生たちはホチキス留めのパンフレットを配りはじめた。手首をくねくねと動かして紙の隙間に空気を入れ、一部ずつ数えやすくしていく動作はいつも通りで、だからこそ特別授業のこの場では異様なもののように映った。

いつものように、前から後ろへ紙が流れる。ぼくも後ろへ回してから自分のぶんを見ると、それは「多様な性をかんがえてみよう」と題されたパンフレットで、めくると「トランスジェンダー」や「レズビアン」「LGBT」など、いろんなカタカナ語がやわらかいイラストといっしょに並んでいる。
ぼくを含め、みんなは手元にやってきた目新しいパンフレットに夢中で、思い思いに目を通している。まお先生もぼくたちを急かすことはせず、しばらくそんなぼくたちを眺めて待ってくれていた。

何人かが飽きて顔を上げはじめた頃、「それじゃあ」とまお先生が口を開く。

「今日は、僕が実際に体験した話をメインに進めていくよ。パンフレットにも載っている話をするときは声をかけるから、僕の話とパンフレットを使い分けてくれると嬉しいな」

何人かの熱心な子が頷いた。まお先生はそれを見て満足そうに笑い、近くに座っていた女の子を指名する。

「そこの君。突然だけど、性別っていくつあると思う?」

「えっ……」

 急に当てられて、その子が飛び上がるのがぼくにも見えた。

「ええと、2つ、だと思います。男の人と女の人です」

「うん。教えてくれてありがとう」

まお先生が笑うと、目がすっかり線になって、いっそう明るくて優しい顔になる。その子がほっと肩の力を抜いたのが見えた。

まお先生は僕たち全員に話すように背筋を伸ばす。

「僕は女の子として生まれたんだ。病院では、生まれたばかりの赤ちゃんの体を見て、体の特徴から男の子か、女の子かを決めるよね」

うんうん。また何人かが頷くのが見えた。

「僕はかけっこが速くて、虫捕りが好きで、ミニカーを集める子どもだった。幼稚園では女の子と一緒におままごとをするよりも、男の子と一緒に鬼ごっこをしたり、サッカーをする方が楽しかったんだ。

幼稚園の年中に上がった頃、女の子たちから『まおちゃん、変だよ』って言われるようになった。『なんだか男の子みたい』だってね。女の子は女の子同士で、おままごとやごっこ遊びをするものでしょって。

最初は何を言われているのか分からなかった。僕は、別に男の子みたいにしようとしていたわけじゃなかったから。ただ自分が楽しいと思う遊びをしていたら、男の子たちと遊ぶことが多かっただけ。

言われて観察してみると、確かに僕の周りには男の子しかいないことに気づいた。虫捕りをしたり、サッカーをしたりする女の子は、僕以外にいなかったんだ。

女の子たちを見てなのか、男の子たちにも『変だ』って言われるようになってきた。ある時からサッカーに入れてもらえなくなって、かといってごっこ遊びにも入れてもらえなくなって……。小学校に上がっても、それは変わらなかった」

まお先生は悲しかったかもしれない思い出を、深刻そうに、けれど悲しくはなさそうに語る。ぼくは冬のかわいた空気を思い出した。

「僕の通っていた小学校は、2つの幼稚園と1つの保育園から子どもたちが入ってくる学校だったんだ。だから、僕が『変』だって知らない子もたくさんいた。だからまた一緒に遊んでくれる人たちができた――最初はね。周りからなんて言われても、僕はやっぱり『男の子みたいな』遊びの方が楽しかったんだ。

でもだんだんと、僕が『変』だっていう話が広がって、やっぱり誰も一緒に遊んでくれなくなった。みんなは楽しそうに遊んでいるのに、僕は、僕だけは、楽しいことをすると『変だ』と言われる。こんなのおかしいと思ったけど、どっちがおかしいのかは分からなくて、誰に相談すれば良いのかも分からなかった。もしかしたら周りのみんなが言うように、僕の方が『変』なのかもしれないと悩んじゃったりしてね。

学年が上がるにつれて、僕が変なんじゃないかという思いはどんどん強まった。例えば、トイレに入る時。トイレは男女で分かれているよね? 僕は女の子として生まれたから、女子トイレに入ろうとするんだけど、いつも一歩手前で考えこんじゃってたんだ。違和感というか。

僕は、本当に女の子だったかな? って。

健康診断の時も、プールの着替えの時も、同じような違和感が何度も起きてきて誰にも相談できなかった。ずっとずっと悩んでいると具合が悪くなってきて、保健室で休むことが増えて……そして、見つけた。保健室に『いろんな性ってなに?』っていう本が置いてあってね。その本に『トランスジェンダー』っていう言葉と、その説明が書いてあったんだ。僕はこれだったんだ! って思った。あ、みんなはパンフレットの3ページを開いてね」

拳を握って熱弁するまお先生は、思い出したようにぼくたちに指示を出した。素直に言われたページを開きながら、ぼくはまお先生の、先生「らしくない」ところ――話に夢中になっちゃうところとか、飾らない話し方とか――が好きだと思いはじめていた。

3ページには、まさしくトランスジェンダーについての説明が載っていた。
「そこに書いてある通り、トランスジェンダーっていうのはこういうことなんだ。体と心の性別が違っていること。僕で言えば、女の子の体で生まれたのに、心は男の子だっていうこと。僕とは逆に、男の子の体で生まれて、心は女の子っていう人もいるんだよ。

でもトランスジェンダーだからって、みんなが僕みたいに虫捕りやサッカーが好きなわけじゃない。僕の友達には妹と一緒におままごとで遊んで育ったっていう人も、少年野球チームでピッチャーをやっていたっていう人もいるよ。トランスジェンダーだからって、特別なことは何もないんだ。ボーイッシュな女の子がいたり、やわらかい雰囲気の男の子がいたりするのと一緒。ただ体と心の性別が違っているだけなんだ」

近くに座っていた男の子が振り返り、近くの友達とそこそこ大きな声で話している。

「でも、つまり、ホモってこと?」

「オカマじゃん」

「気持ちわりぃな」

どきりとした。刺々しい言い方にこもった差別的な悪意。発した本人たちにはそこまでの意図はないかもしれないけれど、それはまお先生を――目の前で話す特定の個人を、はっきりと悪く言う言葉なのだ。

まお先生には聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか。

ちょうど男の子たちの呟きに重なるように、別の場所で女の子が高く手を挙げた。まお先生の意識はそっちに向いたので、聞こえていないと良いんだけど。

「まお先生。質問してもいいですか」

「おっ。どうぞ」

「まお先生が話しているトランスジェンダーの人ってつまり、オネェの人たちってことですか? テレビに出ているような」

そう言って、有名なオネェタレントの名前を2、3人挙げる。まお先生はまた目を線にして笑った。

「良い質問をありがとう。そうだね。ああいうタレントの人たちも、つまりトランスジェンダーということになる。

でもひとつだけ覚えておいてほしいのは、タレントの人たちは仕事としてやっているってこと。トランスジェンダーの人みんなが目立とうとしていたり、ネタを持っていたりするわけじゃないんだ。世の中には自分がトランスジェンダーであることを隠していたり、あえてアピールしたりしない人もいる。テレビだけの印象で見ると、トランスジェンダーは派手な人に見えるかもしれないけど、それはあの人たちがタレントさんだからだよ」

「なるほど……」

「僕、なにかネタを始めそうに見える? 見えないでしょ。普通の一般人なんだよ」

両手を軽く広げてふざけて見せる。ぼくたちの間に笑いの波が広がった。

まお先生はさらに説明を続けていった。パンフレットに乗ったLGBTのこと。「トランスジェンダー」はLGBTの「T」であり、ほんの一部でしかない。個性も悩みも違うけれどひとくくりにされ、根強い差別や偏見と向き合っているのだという。

説明の最後に、まお先生はこう付け足した。

「そうだ。これも話しておかないとね。これまで話してきたのは、いろんな性の話。いろんな性の中には、多数派である異性愛も含まれているんだ。異性愛のことは『ヘテロセクシュアル』と呼ぶよ。パンフレットの5ページを開いてみて。全部一覧表になってるから」

周りでページをめくる、紙と紙がこすれ合う音が湧きかえる。5ページと6ページは見開きになっていて、そこに多様な性を分かりやすい図にまとめた一覧が描かれていた。

異性愛者を「ストレート」と呼ぶ言い方を聞いたことがあった。このパンフレットによれば、それはあまり好ましい表現ではないらしい。なぜなら異性愛者を「ストレート」と呼ぶと、異性愛者が「普通」で、同性愛者やトランスジェンダーのひとたちは「曲がっている」ことになってしまうから。今まで考えたこともなかったけれど、一度気づけば確かに、言葉に含まれた「何が普通か」という価値観の偏りを無視できなくなる。

ぼくは不思議な気持ちにさせられていた。

男の子は青や水色、女の子は赤やピンク。

男の子は電車や車が好き、女の子は家の中で人形とおままごと。

そんな、どこかからやってきた「普通とは何か」という価値観の中で、ぼくは生きてきた気がする。

男女の見えない境界を越えると「変」「どうして」と言われ、気まずい思いをすることになる。だから、男なら男らしく、女なら女らしくしておいた方が良い――そう思っていた。

でも、この図を見るとどうだろう。

男の子は女の子を、女の子は男の子を好きになることが当たり前で、それ以外は「変」なはずだった。でもぼくの目の前に開かれた図では、異性愛はたくさんあるうちのひとつに過ぎない。こっちの方が自然で、肩のこわばりがとれる考え方に思える。

今まで身につけてきた価値観は、間違っていたのだろうか。こちらが正しいのだろうか? まお先生のような人たちを「少数者」として区別する世界は、間違っていて正すべきなんだろうか?

そもそも、どちらかが正しくてどちらかが間違っているって、一体誰が決めるんだろう?

授業はいつの間にか質疑応答に移っていた。まお先生が質問はないかと聞くと、ひとりの男の子がさっと手を挙げる。

「まお先生。トランスジェンダーと性同一性障害は、どう違うんですか?」

「おっ。良い質問だね。ありがとう」

まお先生に褒められて、その子は嬉しそうにしている。

「性同一性障害は、トランスジェンダーの人につく診断の名前だよ。医学用の名前ということだね。トランスジェンダーは本当は病気ではないんだけど、病気として見られる時代もあったんだ。

性同一性障害の診断は、トランスジェンダーなら必ず受けなければいけないわけではないんだよ。病院にいって診断を受ける人は、手術を受けようとしている人が多いかな。心の性別に体を合わせて生きていきたいと思う人もいるからね。手術を受けるためには、病院で診断を受けないといけないんだ」

「そうなんだ」

今度は別の男の子が手を挙げた。

「まお先生。先生のお父さんやお母さんは、今先生が男の人としていることを知っているんですか。……打ち明けるのに、緊張しませんでしたか」

「それも良い質問だね。ありがとう」

まお先生は、どんな質問もしっかり聞いた人の目を見て聴き、丁寧に答える。ぼくはますますまお先生を好きだと思った。

「自分がLGBTであることを周りの人に打ち明けることを『カミングアウト』と言うよ。人によって最初に打ち明ける相手は、友達だったり家族だったりするんだけど。僕が最初に打ち明けたのは学校の保健室の先生。家族は2番目だったから、他の人より緊張はしなかったかもしれない。でも家族ってやっぱり友達とは違うから、独特の緊張感はあったよね。

中学生になる頃、まずお母さんに話した。ゆくゆくは家族全員に言おうと思ってたんだけど、まずはお母さんからと思ってね。

当然だけどお母さんはすごくびっくりしたみたいで、態度が素気なくなっちゃって。僕の知らないうちにお父さんや、一緒に住んでるおばあちゃんとかにも伝わっちゃったみたい。僕はしばらく家の中で孤立してたね。でも僕、押しが強いっていうかなんていうか。お小遣いをはたいてLGBT関連の本をたくさん買い込んで、家のあちこちに置きまくってた。誰かが読んで、知識をつけて、僕がおかしいわけじゃないことを分かってくれたら良いなと思って。自分の子どもや孫に説明されるより、専門家の人が書いた本を見せた方が説得力も増すんじゃないかと思ってさ。

そのうちに、お父さんとお母さんがちょっとずつ話しかけてくれるようになって、つられるようにおばあちゃんも。どれかの本を読んで、理解してくれたのかなと思ってるよ。

とはいえ、大学に入ってトランスジェンダーの友達が増えてからは、僕は珍しい対処をしたってことがよく分かったよ。親が落ち着いて受け入れてくれたっていう人も、親とケンカ別れしたままだっていう人も、いろいろいたからね。僕はアピールしすぎて、親が受け入れざるを得なかったのかも」

そう言って笑うまお先生は、いたずらが上手く行った時の男の子みたいな顔をしていた。


まお先生が言っていた「いろいろ」の中で、今この状況は限りなく「ケンカ別れ」に近い方に位置している気がする。

お母さんはパンフレットに手を伸ばそうともしない。まるで汚いものでも見るような目で、微かにパンフレットから身を引いてさえいる。きっとテーブルの下では、きつく握りしめた両手が硬くこわばっているのだろう。近づくことを嫌がっていた。

「病気よ。琴梨。あなた病気だわ。病院へ行って、治してもらってきてよ、気持ち悪い」

ぼくが口を開いたのはほとんど反射だった。

「お母さん、それは違うよ。僕、この間学校で……」

「あんたは黙ってなさい、琴春ことはる。どうせ何も分からないんだから」

「母さん、琴春はもう高学年でしょ。そんな決めつけは」

「あなたは話を逸らさないの」

庇おうとしてくれた姉ちゃん含めてぴしゃりと言われ、口をつぐむしかない。こうなったら黙っておくほうが、お母さんを刺激せずに済む。

お母さんは姉ちゃんにすがるような声を出した。

「ねえ琴梨、なんでこんな風になっちゃったの。せっかく都会の良い大学に行ったのに、そこで変なことばかり身に着けてきて。ご近所や親戚になんて言えばいいのよ」

話すうちに声が詰まり、顔がくしゃりと歪んでいく。しまいには顔を覆って泣き出した。

「ああ、どうしてこんなことに……お願いよ、あたしのかわいい琴梨を返して。前に戻ってよ」

「……ごめん、母さん。戻れないよ。むしろ、ずっと無理してたんだから。女の子らしくしようとして、頑張って――無理だった。だって女じゃないんだから。これ以上、我慢なんてできない」

「いいえ。あなたは我慢なんかしてない。だってあなたは女の子なんだもの。間違いなくあたしの娘なんだもの」

「……」

姉ちゃんは困ったように黙りこむ。むせび泣くお母さんを横目に、ざっと目を通したらしいお父さんがパンフレットをテーブルに置いた。

「今まで、誰かに相談したことはあるのか? 大学に入る前とか」

「ないよ。近所に広まるかもしれないのが嫌なわけ? 地元では誰にも言ってないよ」

「いいや、そういうことじゃない……ずっとひとりで考えていたのか」

「あなた、何を共感的なことを言ってるの」

お母さんが泣き腫らした目を上げる。苛々とお父さんを揺さぶった。

「琴梨はおかしいわ。病院に連れて行かないと。治して、元に戻してもらわなきゃ。あなた、何を言ってるか分かってるの。琴梨がこのままで良いと思ってるの!? あたしたちが楽しみにしてたことが全部、それこそ全部なくなるのよ!? 琴梨の結婚式が、ウェディングドレスが楽しみだってあなたが言ったんじゃない。それに、あたしたちの孫は! それが全部……それで良いっていうの!?」

「母さん、落ち着くんだ。それとこれとは……話が違うだろう。まずは琴梨の言いたいことを最後まで」

「これ以上聞くことなんてないわ! もうたくさん! あたしは絶対に認めない、こんなこと」

そう言ってまたむせび泣く。お父さんの少し困ったような目が、お母さんから姉ちゃんに向く。

「琴梨。……急なことで……どうしたら良いか……でも、そうだ。どうして今日なんだ。打ち明けるからには、何か理由があったんじゃないのか」

お母さんは涙で顔をぐしゃぐしゃにして、お父さんの腕を殴っている。声にならない泣き声。お父さんはお母さんをなだめながらも、姉ちゃんから目を逸らさなかった。

「うん」

視線を受けた姉ちゃんは背筋を伸ばし、はっきりと顎を引く。お父さんに向けてはっきりと口を開いた。

「俺、改名したいんだ。通称名じゃなく、正式に」

綾瀬琴梨。姉ちゃんは「女の子らしくて、かわいい」と言われがちなこの名前が、息苦しくて仕方なかったと申し訳なさそうに語った。大学では通称名として、別の名前を使っているという。お母さんはいよいよ声を上げて泣きだした。

「就職活動も、別の名前でやりたいと思ってる。通称名に配慮してくれるところもあるけど、どうしても幅は狭くなるから。ちゃんと手続きをして改名したいんだ。

でも名前っていうのは、父さんと母さんがつけてくれたものだからさ。家族に何も言わずに変えるのは、違うなと思って」

「……名前と一緒に、性別も変わるのか?」

「今のところは名前だけ。今の日本の制度では、戸籍上の性別を変えるにはもっと厳しい条件があるんだ。名前はもう少し簡単に変えられるんだけど」

「……そう、か」

お父さんはこれが良いとも、駄目だとも言わない。弄ぶようにパンフレットの1ページ目を開いたり閉じたりし、ふうっと、それこそ全身からすべての空気を吐き出すようなため息をついて黙りこんだ。

居心地の悪い沈黙が流れた。

誰も、何も話さない。耳に聞こえるのは遠くで叫び続けるセミの声と、お母さんのすすり泣きだけ。みんながこのまま食卓に座り続ける、それが永遠に続くような気がした。

「……じゃ、そういうことだから」

ついに耐えかねた姉ちゃんが、リュックを掴んで立ち上がろうとする。気まずさから逃れて早めに帰ろうというのか。

お母さんが怒りの声を上げた。

「言いたい事だけ言って帰ろうっていうの? そんなに都合の良いことさせませんからね。琴梨。どうしてお父さんとお母さんを悲しませるようなことばかり言うの? あたしたちがあなたを大事に思ってることが分からないの。そんな生き方、不幸になるだけだわ。もっと普通にして。女の子らしく」

「普通に、ね。俺にとってはそれが不幸な生き方なんだよ。母さん」

「そんな男の子みたいな話し方やめて!」

ついにお母さんが爆発した。

「全部思い込みだわ! どうしてそれが分からないの!? あなたは女の子だわ、間違いなく! だから女の子のまま幸せになって。百歩譲って、男の子みたいな女の子だって世の中にいるとしましょう。あなたはきっとそれよ、男の子なわけじゃない。だからあたしたちがあげた名前を捨てるなんて言わないで。男みたいに生きるなんて! たとえ面接で通ったとしても、後が続かないわよ。きっと会社で変な目で見られるわ。幸せな結婚もできないわよ。いじめられてもいいの? 一生ひとりで過ごすことになってもいいの。それで幸せになれるはずなんてない!」

「悪い、母さん。2人の期待に沿えないことは、申し訳ないと思ってる。応援してくれなんて言えない。でも、期待に応えようと生きるのは俺にとって無理することなんだ。だからこれ以上続けることの方が苦しい。……いじめなら、もう充分受けてきたよ――女の子に馴染めないっていうことでね。自分らしく生きることで周りに馴染めないなら、気の合う人たちと一緒に居場所を作っていくだけだ」

「そんな人たち多くないわ。今にひとりぼっちになるに決まってる。そんな寂しいこと!」

「俺はひとりじゃない。結婚を考えてる彼女がいる」

「彼女ですって!」

お母さんの声が上ずる。まるで姉ちゃんを批判しつるし上げるみたいに。

「この子はこの上になんてことを言い出すのかしら! ありえない。ただでさえおかしいのに、さらに他人様にまで迷惑かけてるっていうの?」

姉ちゃんも耐えかねて語気を強めた。

「彼女のことを悪く言うな。もう向こうのご両親にも会ったんだ。全部知った上で俺を受け容れてくれてる。しっかりした人だとも言ってくれた。……こう言っちゃ悪いけど、すごく優しい人たちだ。母さんよりずっとね」

凄むように発せられたのは、過去20数年間の我慢の集積だった。

「母さんは俺を理解しようとも、愛情かけて心配しようともしてない。もともとこうなるんじゃないかとは思ってたけど……予想以上だったよ。俺はあんたの好きに飾り立てられる人形じゃない。ピンクの服も、女の子らしくと言われることも、もううんざりだ。せめて俺はここから離れて、俺の人生を生きさせてもらうよ。今回は報告に来ただけだ。これで筋は通したから」

「琴梨、待ちなさい」

「もうバス出るから」

リュックを片方の肩にかけて、制止も聞かず席を立つ。あ、行ってしまう。反射的にぼくも立ち上がり、姉ちゃんに続いてリビングダイニングを飛び出した。

背後で荒々しく立ち上がる音。くぐもった押し問答と、お皿がドアに当たって割れる音が響きわたった。

お母さんの怒り狂った声が追いかけてきた。

「親不孝者! こんな娘を持ったお母さんは不幸だわ! 金輪際帰ってこないで! 絶縁よ!」

時計は10時50分をさしていた。


玄関を出ると、セミの声が一気にぼくたちの頭上に降りかかった。照りつける日差しは蒸すように暑くて、日なたに出た瞬間に汗がふきだしてくる。まるでアブラゼミのジリジリいう声が、オーブンの温度を上げるつまみを回す音かと錯覚した。鳴けば鳴くほど暑くなる。

姉ちゃんは重そうなリュックを背負っているのに早足で、ぼくは遅れずついていくために小走りにならないといけなかった。むせるほど暑い空気が瞬間的に汗をかかせて、ぼくのTシャツをあっという間に皮膚に張りつかせる。
それでも頑張って小走りを続けていると、つと姉ちゃんが足を緩めた。

「琴春も来たんだ。いいのに、引き留められても戻るつもりないし。そもそも、今日帰る予定だったわけだし」

「違うよ、そういうつもりじゃ……。なんだろう、ただの、見送り?」

「ふーん、そう?」

姉ちゃんはさらに歩調を緩めて、ぼくが楽々と並んで歩けるペースにしてくれた。ふたりで日陰を選んで歩くうちに、少しずつ息が整ってくる。落ち着いて話しはじめることができそうだった。

「ねえ、改名するって言ってたよね」

「うん」

「どんな名前にするの」

「真琴」

元の名前に入ってた「琴」の字は残しつつ、男性とも女性ともとれる響き。音の同じ「誠」、つまり真実ともかけていて、本当の自分、という意味を持たせるという。

「へえ、格好良いね」

「いいよ、無理して褒めなくて」

姉ちゃんはぼくの賛辞を卑屈に受け取ったらしい。「違うよ」ぼくは慌てて否定した。

「さっきはお母さんに止められて言い出せなかったんだけどね。このあいだ、学校で特別授業があったんだ。LGBTの話」

ぼくは話した。まお先生のこと。最初にまお先生に抱いた違和感のこと。「なんか、気持ち悪い」「変だ」と言っていたクラスメイトのこと。ぼくが感じた不思議。

「まお先生ね、一緒に住んでる彼氏さんがいるんだって。スライドで写真も見せてくれたんだけど、すごく楽しそうだった。雑誌に載りそうな、お洒落な家に住んでてさ……。まお先生の話を聞いているうちにね、よく分からなくなったんだ。まお先生はすごく幸せそうだった。でもそれは、まお先生が男だからでも、女だからでもない。まお先生がまお先生らしいからなんじゃないかなって。まお先生が昔は女の人だったとか、からだの性と心の性が一緒じゃないとかって、変でもなんでもないんじゃないかなって。

だから姉ちゃんの話を聞いた時、ぼくはそんなに慌てなかったんだ。もちろんびっくりはしたけど、お父さんとお母さんほどは慌てなかったし、変だとも、まして病気だとも思わなかった。

むしろ、ますます不思議になった。お母さんは『女の子らしい幸せ』みたいなものを守ろうとしていたけど、それに合わせようとして姉ちゃんが不幸になるなら、どうしてそこまでしがみつくんだろう。こんなに苦しいって言ったのに、どうして分からないんだろうって。

姉ちゃんが琴梨でも真琴でも、ぼくたちがきょうだいなことには変わりないと思うしさ」

姉ちゃんは驚いたようにぼくを見下ろしていた。今度は、ちゃんと素直な意味に受け取られているだろうか。

反応をうかがう、少しの沈黙。「それにね」ぼくは自分のささやかな願望を付け足した。

「ぼく、ちょっと兄ちゃんも欲しいと思ってたし」

ちらと姉ちゃんを見上げる。この数年でぼくの身長は伸びたはずなのに、まだ姉ちゃんには届かない。

横顔を見せた姉ちゃんは、隠し切れない笑みを見せていた。

「そっか。ありがと」

「うん」

ぼくたちはゆるやかな坂を下りはじめる。坂の途中にあるバス停が見えてくる。その時、携帯が振動する音がくぐもって聞こえた。

「あ、俺だ」

姉ちゃんが足を止め、リュックを探ってスマホを取り出す。その表情がさっと翳った。

発信者の欄に「父さん」の表示があったのだ。

「……どうしよ。出る?」

対応を迷うようにぼくを見る。

「戻れって言われるのかな。まだ話は終わってない、みたいな」

「スピーカーにしてよ。一緒に聞きたい」

「うーん、分かった」

渋々と通話ボタンを押した。「父さん」の名前の下で、通話時間のカウンターが増えはじめる。

ためらいがちなお父さんの声が、せみしぐれの中にすべりこんだ。

「もしもし?」

「なに?」

「琴梨か」

「そうだけど」

「向こうに帰る予定を、少し遅らせられないか」

「……なんで。もう家に戻らないよ。絶縁するんでしょ」

「少し、落ち着いて話がしたいんだ。お前と2人で」

「……」

つまり、お母さんは抜きで、と言っているのだ。

「正直に言うぞ。母さんは、今日話したことを受け容れるのに時間がかかると思う。お父さんも驚かなかったわけじゃない。でも、少なくともお父さんは、お前を否定するつもりはない。ただ、少し時間が必要だと思うんだ。いろんなことに……理解して、落ち着いて話をする時間が。

だから会って、話をしてくれないか。もし今のお父さんにできることがあるなら、お前のためになんでもする。だから、いつでも連絡してきなさい。話は遮らずに聞くから」

通話しながら歩いているうちに、バス停に着いていた。身を乗り出して時刻表を見ると、もうすぐ、11時ちょうどのバスがやってくる。

姉ちゃんを見上げると、お父さんと会う場所の相談をしているところらしかった。

「分かった。じゃあ明日、駅前ね。今日は適当にビジネスホテルとか探すから、いいよ」

「……そうか」

「それじゃ」

お父さんはまだ何か言いたそうにも聞こえたけれど、姉ちゃんはぷつりと電話を切ってしまう。スマホをしまうと、うーんと大きな伸びをした。

「はあー。母さんはあんな感じになるだろうと思って身構えてたけど、いざ自分のこととして直面すると、重いな。人の体験談を聞くのとはわけが違うわ。付き合わせてごめんな、琴春」

「大丈夫だよ。でも確かにまお先生の話を聞いてるより、すごかった」

まお先生も、すぐには受け容れてもらえなかったと言っていたっけ。けれど他人の体験談として、落ち着いた場所で話を聞くのと、目の前で現在進行形の感情的なやりとりを繰り広げられるのとでは、空気感が違う。ぼくはただ傍で見ているだけだったけれど、渦中の姉ちゃんにとっては、もっと。

姉ちゃんはぼくの肩に手を置いた。

「あの母さんのことだから、琴春にも『男の子らしく』とか何か押しつけてんじゃないの。

もししんどくなったら、俺のアパートまで逃げてきな。今はまだ実感が薄いかもしれないけど、世界ってすごい広くて、いろんな人がいるから。母さんの考えに従わなくても、賛成されなくても、楽しく生きる方法はいくらでもある。俺は我慢の限界だったから今日こうやってぶちまけちゃったけど、反動が琴春にいかないかだけがすごい心配だよ」

「ありがとう。ぼくは今のとこ大丈夫だよ」

バスが坂を上ってくる。エンジンをふかす独特の音。近づいてきて停まり、姉ちゃんの目の前でドアを開いた。

「何かあったら連絡しろよ。絶対だぞ」

乗りこみながら、まだ念押しをする。車内から流れ出た冷房の風が、ぼくの汗ばんだ手足をからりと撫でた。

「うん。姉ちゃんも」

ブザーが鳴る。ドアが閉まった。

バスが発車する。姉ちゃんが窓際で手を振っている。ぼくも精いっぱい大きく手を振り返した。

速度を上げたバスはすぐに坂の頂上を越えて見えなくなってしまう。エンジン音がせみしぐれの中に聞こえなくなるまで見送って、ぼくはふうと息をついた。

帰るか。

衝動的に追いかけてきたせいで、ぼくは完全に手ぶらだ。連絡が取れないと2人に心配をかけてしまうだろう。お母さんがまた半狂乱になるかもしれない。

時間がかかるかもしれないけど、姉ちゃんがまた家に帰ってこられるといいな。それか、ぼくが姉ちゃんと、その彼女さんに会いにいこうか。

のんびり坂を上りはじめる。空を見上げると、綺麗な彩雲が空に虹色を広げていた。

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