育児本を読める時/読めない時【僕とパーツの人生紀行】
僕は育児・医療支援系の本を読むのが好きだ。
パーツたちの中に5歳の子たちがいるので、彼らと接する時の参考になればと思って知識を増やしている。
少し前まではパーツの概念がなかったので、主自身がそれらの本が好きだと思っていた。(その見方も間違いではない)
……が、主ひとりが育児本が好きだという認識では説明できない問題も起きていた。
読める時と読めない時があるのだ。
主が本を読める時
読める時とは、どんな時か。
主が育児本を読める時、気持ちは落ち着いている。
自分の特性を上手く付き合うために役立ちそうな知識が載っていはしないか、町で子どもと会ったらどう接すれば楽しいのか……。
そんな知識を得たくて読んでいる。
本を読めない時の状態
反対に、読めない時。
文字を追うほど気持ちがざわついてくる。
本に登場する子どもたちと主が同い年くらいだった頃の、完璧主義で、批判的で、融通の利かなかった自分を思い出して自己批判に陥る。
なんて扱いづらい子だったのだろう。同級生にかけたかもしれない、心ない言葉たち。言ってしまったことは取り消せず、彼らの心の傷を作ってしまったかもしれないなんて……。
読むほどイライラしてくるので、「どうして今日は読む気になれないんだろう」と思いながら、本を置くことになるのだ。
これまで、この現象は謎に包まれていて、理由を説明することができなかった。
これを解決してくれたのも、「パーツ」の概念だ。
つまり、同じ本に向き合う主の気持ちがコロコロ変わるのは、本を読んでいるパーツが違っていたからである。
本が読める時のパーツは誰か
落ち着いて本が読め、知識を有意義なものとして吸収できる時。
本を読んでいるのは僕である。
これはこの話題を考えている時にした自己発見なのだが、僕は家にいてのんびりしていることが多いからか、子どもたちの世話を担っていることが多いらしい。
主の名付けを借りて「パニック少年」と呼んでいる5歳のパーツがいるのだが、主に彼と交流を持っているのは僕である。
彼との効果的な接し方や新しい視点を得たくて本を読んでいるのだ。
本が読めない時のパーツは誰か
一方、読んでいて気持ちがざわつく時、本を読んでいるのは「たたかうパーツ」である。
こちらも男の子なのだが、年齢の雰囲気は5~17歳くらいと流動性がある。
語彙力と批判力にすぐれていて、その強いエネルギーはいわば諸刃の剣だ。
上手くいけば、「たたかうパーツ」は人との心理的な境界線を引き、人との適切な心理的距離を保ち、主を疲れさせないでいることができる。
ところが長年の歪んだ経験が原因で、「たたかうパーツ」は今のところ自己批判に駆り出されていることが多い。
親に怒られ嫌な思いをしないように、先回りして自分を叱りつけるのである。
「パニック少年」は驚いて泣き出すし、「終焉」パーツは生きていることに絶望してしまう。僕はパニック少年を慰めたいのだが、たたかうパーツの声が大きすぎて声が届かない。
うっかり読書中にたたかうパーツが出てきてしまうと、苛立ちばかり募る読書になってしまうのだ。
過去の自分を思い出し、その時の偏った認識を批判し、後悔へと駆り立てる。それが果てしなく続く。
知識を得るために始めた読書が憂鬱を増す苦痛の時間と化し、無意味どころか有害な時間を過ごす羽目になってしまうのだ。
僕が見つけた対処法
誰もそんな時間を過ごしたいはずはないので、僕たちは対処法を考えることにした。
まずは手っ取り早く、有意義な気持ちで読めない時は本を閉じてしまう。別の本を読むことにする。
あるいは「たたかうパーツが暴走してしまっている」と思ったら、すぐに他のパーツ(特に、本を読みたかったはずの僕)にスイッチする。
必ずうまくいくわけではないが、まだまだ練習中だ。
「たたかうパーツ」も決して悪者ではなく、これまでの暴走が癖になってしまっているわけだから、これから練習して落ち着いていければいい。
《主です》
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