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「やるべきこと」と「やりたいこと」のバランス

こんにちは。「パニック少年」です。
「無気力」にてつだってもらいながら書きます。


「やりたいこと」の前に「やるべきこと」を挟むくせがあります。

「本を読みたい、でも、その前にお皿洗わなきゃ」みたいな感じで。

これは良い習慣なんだろうか。もしかしたら、そうかもしれない。

バランスさえ見失わなければ。

ぼくは容易にバランスを見失う。

ぼくが「やるべきこと」を優先させるのは、自分のためじゃない。

そうしないと怒られていたからだ。

「やるべきこともやってないのに、好きなことばかりやるのはダメ」

そんなメッセージを受けとり続け、激しく怒られたことも何度もあったと記憶している。

「やりたいこと」の方が楽しいから、ラクに流れやすいぼくはついついそちらを優先してしまっていた。

楽しいことをやっていても体は疲れるので、休んでいると、「やるべきこと」は後回し。
その結果、怒られてしまう……。

このサイクルを繰り返していた。


今はもう怒られる環境からは離れられたけれど。

離れてからの方がより顕著に分かる。

ぼくは怒られるかもしれないことを恐れている。

パートナーさんはぼくを怒らない。とてもやさしい。それはよく分かっている。

それなのに疑ってしまう。「腹の底では違うことを考えているんじゃないか」と。

言葉の端々から、態度の機微からそれを察して動かないと、ぼくはまた怒られてしまうんじゃないか。

そんなふうに思えてしまって。そう思う「くせ」がついてしまっていて。


だから今日、「やりたいこと」のせいで疲れきってしまって「やるべきこと」まで手が回らなかったとき、久しぶりに「たたかうパーツ」が出てきてぼくを責めた。

「そんなことじゃダメだ」
「やるべきこともやっていないのに『疲れた』なんて甘えている」

不思議なのは、他人がやりたいことに取り組んで疲れていても、決してその人に同じ言葉はかけないということ。

もしもぼくの大切なひとが疲れていたら、単に「休みなよ」といってお布団をかけて、やるべきことはぼくがやっておこうと思う。

ぼくはぼくに対して、それができない。

自責がどんどん深まって、疑心暗鬼も深まって、「パートナーさんも本当は怒っているのではないか」が、「怒っているに違いない」になって。

このままじゃ収拾がつかないくらい落ち込んでしまう。

「無気力」が気づいて、パートナーさんに怒っているか尋ねてくれた。


誰もぼくのことを怒っていなかった。

……し、落ち込む必要なんてどこにもなかったくらい優しいことばをもらえた。

ぼくは愕然とした。

だってパートナーさんの優しさはいつも変わらないのに。

落ち込んで、どんどん深まっていくと、ぼくはそのやさしささえ信じられなくなってしまう。言葉の裏の裏まで読もうとしてしまう。

自分が怒られず、できるだけ安全に生き延びるために。

恐ろしいのは、この態度がパートナーさんのせいではなく、ぼくに身についてしまったものだということ。それに気づいてしまったのが怖い。


なんていう環境で生きていたんだろう。

生き抜くことは大変だし、もう二度と体験したくない。

フラッシュバックして、過去と現在の区別があいまいになり、パートナーさんのやさしさを疑ってしまうのも嫌だ。

そしてそれ以上に、そこから離れて生きはじめた後に感じる、違う種類の「怖さ」も恐ろしいものだ。


パートナーさんは「やりたいこと」と「やるべきこと」のバランスを取ることが大事だと言っていた。僕もそうだと思う。

「やるべきこと」って、見つけようと思えば果てしなく見つかってしまうから。

日によって、気分によって、「やりたいこと」を優先する日と「やるべきこと」をがんばる日と。

たまには「なにもしない日」を味わいながら。


ポジティブでいられる時には上手くできるようになってきたこの生き方を、ぼくはまだ時々(あるいはほとんどの時間)忘れてしまう。
思い出すのに時間がかかる。

それでも少しずつ、躁でも鬱でもない真ん中を、ぼくなりのバランスで進んでいけるようになったらいいな。

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