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言葉は腐ってしまう

手に取った物語の中に、自分では見つけられなかった、自分の心情を表す限りなく的確な言葉を見つけると救われた気分になる。

同時に虚しくもなる。それは現在の私の感情を多少浄化してくれても、過去、「あの時」それを口に出したかった時点の私を救うことはどうしてもできないから。

「やらない後悔よりやった後悔」という言葉を聞いたことがある。
私はこれまでの経験から、「でもどっちにしろ後悔と羞恥は心に残るな」と感じる。
しかし残り方の質に違いはあると思う。

私は過去と未来に存在する無数の可能性について考えるのが、昔からの癖だ。

小学生の時は布団に入ってから「今日ケンカしちゃった友達に、明日どういう風に謝ろう?」とシミュレーションしたりしていた。
すんなり許してもらえるパターン、口汚くののしられ、絶対的な仲たがいに終わってしまうパターン。
最高と最悪を考えて、私は無意識のうちに最悪を信じていた。そうすれば傷つかない、傷を少なくできると考えていた。

実際の世界は、私の最悪よりずいぶんとシンプルで優しいのだけれど。


未来に対する課題がない時は、よく過去に存在したかもしれない可能性を試行した。

「あの時」、あれを言ったらどうなっていたか。あれをしたらどうなったか。
逆にあれをしなければ、どうなっていたか。


無数のシミュレーションの中で、「やったこと」には終着点がある。
いくら考えても過去を変えることはできず、結局私は「やった」未来にいるからだ。

でも「やらなかったこと」には終着点がない。

今の私は確かに「やらなかった」未来にいるけれど、じゃあもしも「やって」いたら?
それは過去の再考のみならず、未来のシミュレーションにも繋がってしまう。無数に分岐する未来をの可能性をも考えられてしまう。その果てしなさ、どうにでも転んだかもしれないという、固定されない可能性の多さは、私がそれを「やらなかったこと」によって発生している。

やらなかったことを、やったことに今から変更することはできない。


言ったことで後悔したこともあれば、言わなかったことで後悔したこともある。

そして私たちの心の底にどろどろとわだかまってしまっているのは、やはり「言わなかったこと」の方なのだ。
取り返しがつかなすぎて、どうにも自分を救えない。

「それ」は私が言わなかったから、丸く収まったことかもしれない。
あの時曖昧に笑ったから、良かったのかもしれない。

その場がよくても、私の心は良くなかった。
後からそれに気づいても、もうどうしようもないのだ。

私は無数の未来を試行する。あの時あれを言えていたら、今どんなにかすっきりしていることだろう、と。

その言葉を向けたい相手はまだ存命しているし、言葉をぶつけにいく手段もある。
でもそれとこれとは違うのだ。決定的に違ってしまっている。

今言っても救われないことを、私は経験的に知ってしまっている。
あの時、あの場で飲み込んだ言葉は、あの時、あの場で解消していなければならなかったのだ。

無意識に流れる思考が泥の方まで沈んでいくたび、私は果てしないシミュレーションを繰り返している。
飲み込んだ瞬間から時間が経つほど、飲みこんだ言葉は変質し、形を変えて、より強固で分解しがたい感情を帯びて腐っていっているのが分かる。


私は代替手段として、そこから感情を抜き出して書き記しているのかもしれない。
本来とは違う形だとしても自分の外に少しずつ出していく。放っておいたら泥が浸蝕して自分が丸ごと腐ってしまうような気がする。


そういえば、あの綺麗な蓮の花は泥の中に咲くのだっけ。

腐りかけた言葉たちをうまく抽出して、何か綺麗なものを作り出せたら、いいな。



亜香里

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