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ディズニー映画から距離を置きたくなった3つの理由と気づいたこと

書こうとして、虚脱して、それでも半日をかけて回復して。

勢いに任せて書いてやろうと気になったので、思い切って書きはじめることにする。

ディズニー好きへのおことわり

まずことわっておくと、僕たちはディズニー映画とともに育った。

ディズニーランドに行くのが大好きだ。

人生で最初に観たのは『白雪姫』で、幼少期は『アラジン』を1日に3回は視聴し、日本ではあまり取り上げられないが3、4歳の時に『アトランティス』を劇場で見た。

長年の習慣で、体調を崩し熱を出すと無性に『ピーターパン』が観たくなる。フックとワニの攻防に爆笑しているうちに熱が去る。

何が言いたいかというと、僕たちもディズニー映画が、そしてディズニーが大好きだということ。

だからこそ、黙って嫌いになるのではなく、上手い距離の置き方を模索したいと思った。

そして、嫌いになってほしくないから、気づいたことをシェアしたいと思ったのだ。

ディズニー映画には毒親があふれている

これは最近になってようやく気付いたことだが、ディズニー映画は毒親の宝庫だ。

毒親のいる家庭で育ち、幼少期からディズニー映画に触れ続けることは、アダルトチルドレンと虐待サバイバーにとって悪影響を及ぼしうる。

どういうポイントが「毒親の宝庫」なのか? なぜ距離を置いた方が良いのか?
具体的なキャラクター名も挙げながら、3つにまとめて解説していく。

1 毒親の存在が「普通」だと思い込んでしまう

幼少期に取り入れるメッセージは、一生に渡って影響を及ぼすという点において重要だ。

数多のディズニー映画を見せる家では、それこそ作品の数だけ毒親の実例に触れる可能性が出てしまう。

具体例を挙げよう。

『リトルマーメイド』のトリトン王。
子ども(ひいては王国)の行動や方向性を制限し、アリエルの宝物を勝手に破壊する。

『シンデレラ』『白雪姫』の継母。
血の繋がりはないが、同居の義理の家族である。血縁の兄弟姉妹のみを優遇し、他の子どもを虐げて暮らすのは、双方の子どもたちにとって悪影響がある。

『ピーターパン』のダーリング氏(ウェンディたちのパパ)とフック船長。
機嫌が悪ければ怒鳴り、モノを投げ、犬を外に連れ出す。逆らってはならない絶対的な印象を植えつけかねない。

『ラプンツェル』のマザー・ゴーテル。
ラプンツェルとは血のつながりがない上にヴィランだが、ラプンツェルの育て方には大いに問題がある。
直接的に怒ることはあまりせず、罪悪感をあおるように「そう。私が悪役なのね」と嘆いてみせたり。
ラプンツェルを塔に閉じ込めておきたいがために、「子どもの最善を考えて」なんにでも口出しする母親を演じている。(ゴーテルにとっては思惑が成功しているわけだが、これを現実に、無自覚にやっている人がいるのが問題だ)

上のキャラクターたちは以下の文章でもたびたび引用することがあると思うので、毒親ポイントとともに心の隅に留めながら読み進めてもらえるとうれしい。

2 自分が頑張れば(犠牲になれば)本当の願いを認めてもらえると思い込んでしまう

これはディズニー映画によくある物語の流れの問題だ。

これが前述の毒親的な大人たちと結びつくと、見出しのような印象を抱えた子どもたちが量産されかねないと思う。

つまり、トリトン王に反対され、危険な目に遭いながらも自分を貫いたアリエルのように頑張れば、いずれ親も自分を認めてくれるのではないかと思ってしまうのだ。

自分の過ちを認め、考えを改め、我が子を応援するようになる毒親は少ない。
あえて僕の経験とともに言っておこう。「いつか認めてくれるかも」は幻想だ。悲しいけれど。

そう思っておいた方が傷つかないし、余計なことにリソースを割かないで済む。

振り向いて、応援してくれるようになるか分からない親より、今自分のそばにいて、大切にし、応援してくれている友達を大事にしよう。

3 頑張った後に和解があると思い込んでしまう

これも物語の進行に関わる観点で、上と非常によく似ている。

いろいろな困難を乗り越えたあと、必ず和解できるような気がしてしまうのだ。いわゆる「雨降って地固まる」。

僕はこれに非常に苦しめられた。

「世の中、必ずしもこんなふうにはできていないんじゃないか」と本当の意味で気づけたのは、主が22、3になってからのことだ。気づくのに20年ぐらいかかった。長い。

「全力でぶつかりあった後に必ず和解できる」という教えを盲信したことで、僕たちは多くの人を傷つけてきたと思う。クラスをめちゃくちゃにしたし、大事な友達にひどいことをたくさん言った。孤独になって当然だ。

和解を目指して心にあることをすべてぶちまけていたのは、僕だけだったのだから。

それは親に対しても同じだった。

思うことをすべて言えば、互いにどこかで互いの愛ある本音に気づき、和解の抱擁が生まれるのではないかと思ってきた。

だから両親の口喧嘩を収めようとしたり、真面目に話し合いに参加したり、「たたかうパーツ」の制止を振り切って心情を吐露したりもした。命をかける覚悟が必要なくらい、勇気の要ることだった。

本音の交差点は、見つからなかった。

僕は主の両親を加害者で、毒親だと思っているが、向こうから返ってきたのは「あなたを育てる上で、何も間違ったことはしていない」という主張。

分かり合うための入口も、歩み寄りの意志も、向こうにはそもそもなかったのだ。

目が覚めた思いと同時に、僕たちはショックを受けた。

心の傷の埋め合わせをどこかで求めていたのだ。それは親からは得られないものだった。自分の面倒は自分で見るしかなくなっていたのだ。もしかしたら本来は、生まれた時からそうなのかもしれないけれど。

僕たちがこれに気づくまで長くかかったし、数々の悲しい思いをし人に迷惑をかけた。

だから同じような思いや印象を、他の人に抱いて欲しくない。

ディズニー映画とどう付き合うか?のアイデア

とはいえ、ディズニー映画はいいものだ。

スピリチュアルなメッセージもたくさん含んでいるし、「Let it go」により自由な生き方に目覚めた人も、エマ・ワトソンの美しいドレスに憧れた人も、憧れのミラコスタで結婚式を挙げた人もたくさんいるだろう。

ディズニーには夢がある。

だからその夢を壊さないように、楽しく付き合うためにはどうしたら良いか。

僕は、親からの補足が大事だと考える。

たとえば、「トリトンがアリエルの宝物を破壊したことはよくないことである」ことを、見終わったあとに伝えるとか。

(僕はこのシーンの印象が強すぎて、ずっと親に反抗したあとは部屋に押し入られ持ち物を捨てられるのではと恐れていた。
実際におもちゃを捨てられそうになったのは1回だけなのだが……)

たとえば、子どもが「こんなことをやりたい!」と言った時に、手放しで「いいね!」と褒めるとか。

補足や、ディズニー映画に登場する大人たちとは違う反応をしつづけることで、「プリンセスたちの親」と「目の前の親」の違いを認識していくことができるようになる。

1回だけではなく、繰り返し、が大切だ。1回では印象に残りにくいから。

その後の人生で繰り返し見る、ディズニー映画の印象に負けてしまうから。

トリトンも破壊の後に後悔すること、ラプンツェルはゴーテルの毒を跳ね返して自立していくこと、子どもはその力を持っているし、羽ばたいていって良いのだということ。

ことあるごとに伝えるポジティブな補足が、ディズニー映画のポジティブな面と合わさって、子どもの健全な自己肯定感という土台を作っていくのではないかと思う。

【2022.3.2追記】それでもディズニー映画が好きな理由

先日、人に僕の虐待体験について話す機会があり、こんな感じの言葉をもらった。

「虐待を受けて育つと、『変わろう』とか『ここから脱出しよう』みたいな意志も削がれてしまうことが多いと私(取材者)は思っていたんですけど、Jessieさんがそこまで行動できるのはどうしてなんですか?」

尋ねられた時は気づかなかったのだが、僕が行動を諦めなかった理由もディズニー映画にあったのだと、このあいだ気づいた。

そもそもトリトンがアリエルの夢に理解のある親だったら、『リトル・マーメイド』は成立しなかった。

同じようにアリエルがあそこで諦めたままだったら、『リトル・マーメイド』は成立しないのだ。

これはほとんどすべての作品に言える。

ラプンツェルがゴーテルの反対を押しのけてでも外に出なかったら。
アラジンが身分にとらわれて何も行動しなかったら。
ムーランが出兵していく父親を黙って見送っていたら。
ウェンディがピーターパンを信じるのをやめたら。

すべての物語はバッドエンドで終わってしまう。

僕は「親は毒を振りまくものだ」というネガティブなメッセージと共に、「でも主人公(その子どもであることが多い)が諦めず動き続ければ、事態は進展して何らかのハッピーエンドにたどりつく」というメッセージも受け取っていたのだと思う。

諦めて親の言いなりになること、変化を諦めてしまうことは物語の停滞を意味するから、何らかの目標に向けてとにかく頑張り続けようと思えたのかもしれない。

結局、僕たちが夢見た「ディズニー映画のような、親とのうつくしい和解」は成立しなかったけれど。
代わりに僕は自分の状態を把握するのに役立つ知識や、トラウマを理解して味方でいてくれる友人や、安心して暮らせる環境を手に入れることができた。

もし僕の世界にディズニー映画がなかったらどうなっていたことかとぞっとする。


結局、やはり僕はディズニー映画が好きなのだ。

彼の主人公たちは僕のロールモデルであり、諦めないための指針であり、暗い現状の先に抑圧からの脱却があると示してくれたから。

それを再認識できてよかった。

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