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肯定的な考察で映画を観れる人でありたい

映画をたった一言「駄作だった」と評して終わりにするのは簡単だ。

でも僕はそこから一歩進んで「なぜ僕はそう感じたのか」を分析するようにしている。

世の中には僕が「合わない」と感じた映画を「面白い」「素晴らしい」と評する人がいる。
彼らとの感じ方の違いが、僕たちという人間の物の見方を浮き上がらせてくれる気がする。

それに新たな視点を獲得したり、他の人の考察が腑に落ちて納得が深まることだってある。


こんなことがあった。

とある知り合いで、映画を観ては感想をSNSにアップしている方がいた。

その感想はなかなかに辛口で、映画評を真面目に読んでいた時期は「これほどアラに注目して観て、楽しいのだろうか?」と首をかしげたくなったりもしていた。


僕は、物の見方はある程度選ぶことができると思っていて。

肯定的な面(映画の良いところ)と否定的な面(映画の「ん?」と思ったところ)のどちらにフォーカスするかで、同じ映画でも感じ方が180°変わると感じている。

同じことは人生にも言えると思う。

否定的な面にばかり着目していると、認識する世界のすべてが否定的で、文句をつけたくなるような場所になってしまうのではないかと思う。

もちろん、肯定的な面に着目しているからといって、どうしても否定的にしか捉えられない現象がなくなるわけではないけれど、少なくとも幸福度を手軽に上げるくらいの効果はあるのではないか。


それにいかなるモノも、関わった人が時間とエネルギーと愛情をかけて作ったものだと思うから。

それらを安直に批判して、分かった気になる人であることを僕は選びたくないと思っている。

かけられた熱量。
この作品がスクリーンに投影されるまでに込められたメッセージや、観客に「感じてほしい、知ってほしい」と思われたなにかを、僕も真摯にエネルギーをかけて受け取れる人でありたい。


画像はPixabayからお借りしています。

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