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どうして学歴と職歴を気にする人は存在し続けるのか

その場にいない人のことを話題にする時、その人の人となりを説明するために学歴や職歴を出す人がいます。

「○○大学を卒業して××株式会社にはいった△△さん」という具合です。

私はこの手の表現が大の苦手。

その人の学歴・職歴だけを見て、その人がすごいかどうかを判断しているように感じられるからです。

社会は多様化が進んでいるのに

私は人間性を重視しているし、現代社会は多様な生き方の選択肢が広がり続けています。

中卒で会社を興している人も、大卒でニートの人もいる。

そして、どんな生き方にも優劣はない。

そう思っているから、「○○大学を卒業して××株式会社にはいった△△さん」という紹介をされても、さしたる魅力に思えず、まして重要な情報だとも思えないのです。

どうして、こういう表現をするんだろう?

考えながらこういう人たちと接するうちに、ある共通点と理由に思い至りました。

共通点:年代

私が気づいた共通点とは、学歴・職歴で人を紹介する人たちの年代です。

私の身の周りでこの手の話し方をする人は、総じて50代後半から60代以上。

認知症も問題視されている中で、よく他人の進学先まで覚えていられるものです。

私なんてクラスメイトの進学先すら記憶できていないので、逆に「すごいなー」と感心してしまいます。

学歴・職歴を重視する理由

では、なぜこの年代の人たちは学歴・職歴を気にするのでしょうか?

私が思い至った理由。それは時代です。

学歴・職歴を気にする人たちは、戦後から高度経済成長期にかけて、働き盛り~学生だった世代と一致するのではないでしょうか?

当時は「男は外で仕事、女は家事」という役割分担がよりはっきりしており、多くの人達がひとつの価値観を共有していました。

良い大学に入って、良い会社に入ることです。
そうすれば人生安泰。

会社は終身雇用で一生面倒を見てくれるから、大企業に入ればずっと仕事に困らずにいられる。

大企業に入るために必要なのは、いかに良い大学に入るか。

つまり「○○大学を卒業して××株式会社にはいった△△さん」という表現は、「△△さんはこのくらいすごい人なんですよ」ということを端的に示す、最適化された人物紹介だったのです。

時代が移ったからこその違和感

ある年代の人たちが使う言葉の中に、ある時代の価値観の香りが漂っている。

その可能性に気づけたことは、私にとって大きな発見でした。

気づくまでは、上のような言い方をする人を単純に苦手に感じていたからです。

学歴・職歴を重視し、高学歴ではない人を見下しているのではないか、と感じていました。

今は、学歴・職歴セットの紹介方法がただの癖であり、多様な表現のひとつに過ぎないのだと、柔らかい見方ができるようになっています。

翻って見れば、私だって「自分の年代」「自分が生きている今の時代」の影響を受けているわけで。

10も20も違う世代の人たちと話せば「なにそれ」と思われている可能性だってある。

自分はいつまでも若いつもりだけど確実に年を取り続けていて、若い世代の人たちは私とは違う「自分の年代」「自分が生きている今の時代」の影響を受けている。

ベン図と一緒。
重なる部分と、全然違う部分があり、それが世代や個人の数だけ連続して続いている。

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私は学歴・職歴セットに違和感を覚えたけれど、それが当時は当たり前で、主要な価値観だったのかもしれない。

私が今持っている価値観も、他の人からすれば「なにそれ」と思われるものかもしれない。

考えていくと価値観の連鎖が果てしなくなって、「自分が絶対に正しいなんてありえないんだ」という謙虚な境地にたどり着く。

普段生きている中では忘れがちだけど、自分と違う価値観が絶対的に間違っていることなんてほとんどなくて、違う価値観を認めることが「多様性」の一部なんだ。

そんな風に思うのでした。

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