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「作家であること」がネガティブ・ケイパビリティを伸ばす

ネガティブ・ケイパビリティ。不確定な状況を、はっきりさせないまま受け入れる力。

検索すればすぐに答えが手に入る社会、学校で正解・不正解が存在する問題ばかり習う社会だからこそ、取り沙汰される力なのかもしれない。

学校で習ったまま、あるいは癖で白黒思考が強いままで社会に出ると、世の中の曖昧さや不可視性に強いストレスさえ感じてしまうから。
この世ははっきりしないことばかりだ。

だからこそ答えがあると安心するし、確固とした答えを求めたくもなる。たとえその答えが、冷製に考えれば「おかしくない?」と感じるようなものであったとしても。

けれど安直に答えに飛びつくことは危険でもある。学者や識者は特定の分野について知識を深めるほど、断言できないことの多さに気づいて語尾が曖昧になっていくという現象があるらしい。元来、世界は断言できないことばかりなのだろう。
そんな世界の中で確固として「見える」答えに飛びついて握りしめることは、その答えを信じこませたい誰か、何かに自分の思考を明け渡すことにも等しいのではないか。


物書きであることは、ネガティブ・ケイパビリティを伸ばすことに繋がると思う。

文章のアイデアが、人に見せられる形まで成長していくのには時間が必要だ。一瞬で名文が生まれることもあれば、書いては消し、書いては消しを繰り返す中で1ヵ月経つことだってあるだろう。私は眠らせたアイデアの目もたちで、40ポケットあるクリアファイルが1冊パンパンになっている。

漬物みたいに、味噌みたいに。時間をかけて焦らないことが、良いアイデアをさらに良いアイデアに熟成させてくれたりするのだ。


私は生まれつき白黒思考が強くて、早く結果が欲しい人だった。今でも気を抜くとその傾向が出てしまう。
でもアイデアを寝かせる練習によって少しずつ、いわゆる「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼べそうな能力が育ちはじめてきた。

決めることは簡単そうに見える。

でも慣れてくると、「どちらかを決めない」ことの方がずっと簡単だと感じるようになってきた。

白もあるし、黒もある。0%も100%もある。
私は70%だと思っていたとしても、50%だという人のことも、30%だという人のことも受け入れられるようになる。
何が正しいかなんてその瞬間には分からないから。

自分はこう思う、という考えを持っておくことと、その考えを他者に押し付けることはまた違っている。
自分の考えを持ったまま、他者の考えに耳を傾けることは可能だ。
相反する考えを両立させて、「それもあるかもしれないね」と受け入れることは可能だ。

小説を書いていると、まったく共感できない登場人物を出さなければならないことも出てくる。
共感できなくても、その人を「人間」として描ききらなければリアリティが生まれない。これはネガティブ・ケイパビリティの延長にある、受容性とも呼べる能力かもしれない。

「書くこと」を突き詰めていくと、生き抜くために必要な能力の成長に繋がる。

混乱の多い世の中ではあるけれど、多くの人が手軽に書いて、発信できるようになった現代は、人類の成長が加速される可能性も含んでいるのかもしれない。



Jessie Somerled

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