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「自分らしさ」が希薄だと感じる人は、実は何者にでもなれるのではないか。

「自分軸で生きる」と言われたり、「自分らしさ」が取り上げられたり。
他の誰とも違う、独特で確固とした自己を持っていることが「良い」「素晴らしい」こととする雰囲気がある気がする。

もちろん自分のやりたいこと、食べたいもの、行きたい場所、着たい服等々が定まっているのは素敵なことだと思う。

しかしだからといって「自分がない」「自分らしさって、なんだろう?」と思っている人は劣っていてダメなのだろうか?

僕は、そうは思わない。

擬態して生きる人々

少し僕の話を書く。

僕は「子どもに擬態した子ども」とても呼ぶべき生き方をしていた。

「となりのトトロ」や「名探偵コナン」無数のディズニー映画やこどもチャレンジ。

そういう身の周りにあった、子どもが出てくるものから知識を得、「子どもらしいふるまい」を模倣していた。


目上の人にはきちんと挨拶できると好感を持たれること。(トトロのサツキ)

おもちゃ屋では何かしらのおもちゃを欲しがって駄々をこねること。
(自分で「欲しい!」と言っているうちに言葉に引きずられて本当に欲しくなったりしたが、根源にあったのは「子どもならこうするんでしょ?」という考えだった)

授業では積極的に手を挙げ発言し、はきはきふるまってみんなと遊ぶこと。


今でも似たような擬態の癖は残っており、それは僕の話し言葉に表れている。

僕が今使っている語彙のほとんどは、よく観るゲーム実況者たちが放ったフレーズの組み合わせとアレンジだ。そして日常生活は割とこれで事足りてしまう。

自分だけの、どこにもソースのない思いを口に出す場面は数えるほどしか記憶にない。


幼少期まで記憶を辿っても「僕らしさ」「僕たちらしさ」というものはやはりよく分からない。
「自分らしさ」を見つける前に「子どもらしさ」「小学生らしさ」を見つけてしまって、そちらに沿うことにしたのだろう。というかそうするものだと思っていた。

擬態のうまさが秘める可能性

「自分がない」ことに悩んでいる人がいる。擬態しすぎて本音が分からなくなり、本音を探すことを優先した方が良い人もいる。

そのような人もいることも理解した上で、それでも僕はこう考えることがあるのだ。

「自分らしさが確固としているのが立派」という雰囲気の中では、擬態の上手い人は心もとなさを感じて自分を卑下する方へ傾きがちかもしれない。

だが逆に、この「擬態の上手さ」はポジティブにも活かすことができる一種の特質だと思う。


擬態の上手い人は、触れた情報を素直に取り入れて身にまとうことができる。
まるで試着室でいろんなテイストの服を着てみるように、様々な価値観や振る舞いを身に着けて実践することが力まずともできると感じるのだ。


つまり、なんにでもなることができる。


疲れきらないために必要なのは、身にまとうもの、取り入れる情報の取捨選択。
それを意識的にできるようになると、「なりたい自分」の純度を上げ、どんどんそれに近づいて行けると思う。

優しい人になりたいなら、「優しいふるまい」にたくさん触れて内面化し、人と自分に優しくできる機会を探しながら暮らせばいい。

言葉遣いを丁寧にしたいなら、丁寧な言葉に触れる機会を増やせばいい。

僕は「我々だ」を観ると関西弁っぽくなり、サロメ嬢の配信を観ると少しやんわりした話し方ができるようになる。


そうやって「なりたい要素」を拾い集め、触れ続けているうちに、外からきたものだったはずの要素が「自分のもの」になっていくのだ。


外からの情報や雰囲気に影響を受けやすいのなら、逆にそれを利用してしまう。「なりたい自分」になれるように、「心地良い振る舞い」がやりやすくなるように、どんどん使っていけばいい。


そうしているういに自分にとって居心地の良い態度や生き方が見つかれば「これが私です」と宣言してみるのも楽しいかもしれない。




直也

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