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前編【短編小説】〆切がやってくる

 向こうを照らす街灯を、黒く巨大な影が遮った。

 俺は路地裏で息を潜める。

 今俺が願うことはひとつだけ。

 あいつに見つからないこと。

 でも、もう限界かもしれない。

 今にあいつは身をかがめて、この路地裏を覗きこむだろう。俺は明暗をものともしない目に捉えられ、そして……。

 目が開いた。

 薄青い夜の色彩に沈んだ竿縁天井。布団のざらつき。まごうことなき俺の部屋。つまり、あれは夢か。

 うめくような溜め息を漏らして顔を覆う。いくら気がかりだからと言って、寝覚めの悪い夢を見たものだ。

 まさか、〆切に追われるなんて。

 しかし、所詮は夢。実際にはまだ余裕があるし、焦るにはまだ早……。

 再び寝入ろうとした時、ふと枕元に気配を感じた。

 また虫か? 半身を起こしかけ、俺は驚愕する。

 枕元に少女が座っていた。

 シンプルなTシャツとスカート姿の彼女は、外見から推測するに8、9才くらいか。俺の視線に気づいた彼女は居ずまいを正し、「花が咲いたような」と表現するにふさわしい笑みを浮かべる。

「どうも! 〆切です」

 情けないが、その後の俺の記憶は途切れている。


 目を覚ますと、6畳の和室は朝の光の中に浮かんでいた。スマホで時間を確かめる。午前9時。これほど健康的な時間に目が覚めるなんていつぶりだろう。

 枕元に目をやった。よし、誰もいない。やはりあれは悪い夢だったのだ。

 もうひと眠りしようとするも、なにやら空気が香ばしい。どこかで鮭を焼いている。

 隣の部屋……それにしては近いような。

 まさか。

 突飛な可能性に思い至ってはね起きた瞬間、玄関と台所へ続くふすまがからりと開いた。姿を現したのは、あの少女。

「目を覚まされたんですね! おはようございます」

 再び明るい笑みを俺に向け、ベランダへ続く窓に歩いていく。障子を開けると初夏の日差しが俺の目を射て、思わず「ぎゃっ」と叫んで顔を伏せた。

 脳の奥まで突き刺す光。これが朝だ。今が朝だ。狂った体内時計が針を一時停止して、自然界のリズムをつかみ損ねてふらふらする。

 その間にも、少女は動き回っている。

「朝ごはん作ったんです。ほら! とってもおいしそう」

 思えば少女がふすまを開けた時、焼き鮭の匂いも強まっていた。日光の衝撃をやり過ごしてから顔を上げれば、 ちゃぶ台に2人ぶんの朝食が並んでいる。桃色の鮭、黄色い卵焼き、やわらかく炊かれた白米と味噌汁が、朝日に湯気を輝かせる。

「早くしないと冷めちゃいますよ。信行さんもほら、座ってください」

「おま、さっきから一体……。なんで俺の名前まで」

 見た目は小学生くらいなのに、ずいぶん大人びた口調で俺を呼ぶ。俺は誘われるまま布団を這いだし、ちゃぶ台の前に座っていた。

「いただきます」

 誰かと朝食をともにするのが久しぶりなら、これほど健康的な食事を摂るのも久しぶりだ。おかずはすべて美味かったが、胸にわだかまる疑問まで飲み下せはしない。

「で、お前なに?」

 改めて問う。腹の底にぐっと力を込めて、どんな返答にも気を失うまいと身構えた。

 少女はさも当然のように応じる。

「わたしは〆切です。先ほども言ったように」

「〆切ぃ? それがお前の名前ってこと」

「そう思っていただいて構いません。わたしは信行さんに、〆切を守っていただくために来ました」

 どうも嘘をついているようには見えない。子どもが持っていそうな遊んだ感じがない。

 いや、でも。やっぱり迷子や家出少女の可能性もあるじゃないか。理性が超現実的な状況の受け入れを拒否して、より実際的な方を信じようとする。

 考えあぐねて目を泳がすと、抹茶色の砂壁にかかったカレンダーが目に入る。3日後の日付が赤い丸で囲まれていた。

 〆切だ。

 不定期に短編小説を掲載させてくれる、文学雑誌の〆切。とはいえ俺は数万部を売り上げる売れっ子などではなく、安アパートに住み、不安定な収入で細々と食いつなぐ貧乏作家のたぐいだった。デビューしたての頃はいつも和服を着ていることから「令和の文豪か?」などともてはやされもしたが、それも束の間のこと。世間の興味が移り変わるペースは速く、俺は乗り遅れた。

 書き続けなければ、すぐに興味を失われてしまう。俺は華々しいデビューを飾った直後から筆の進みが遅くなり、どんどん取り残されていった。誌上で割り当てられる枠は回を重ねるごとに狭まり、しまいには担当編集者から「書けたら見せてくださいね」と言われる始末。

 これじゃデビュー前と変わらない。こんなはずじゃなかったのに。

 連載の〆切は毎月日付が決まっている。俺はカレンダーをめくるたびその日に大きく丸をして、今月こそは一作書いて、掲載してもらおうと意気込む。

 決意は、〆切が近づくごとに挫けてくる。

 俺に書けるわけがない。デビューできたのは幸運に過ぎず、人生にそんな偶然が繰り返されるはずはない。俺はこのまま転落していくに違いない……。

 月初に手を付けたはずの原稿が急に味気なく、無価値なものに思えてきて、全部丸めて捨ててしまう。机の上にはいつも真っ白な原稿用紙だけが残り、今月も書けなかったと嘆きながら、〆切が近づき、重なり、来月に遠ざかるのを眺めるのだ。

 何ヶ月も、そうやって過ごしてきた。

 少女はカレンダーを背にして座っているのに、俺が何を見ているか察したらしい。

「そう、あなたには〆切がありますね。間に合うように執筆、頑張ってください。他のことは全部わたしがやっておきますから」

「なんでそこまで」

「頑張って欲しいからです」

「……君、なんなの。俺のファン? まあそんな人いないと思うけど……」

「では、わたしのことは〆切の妖精とでも思ってください。信行さんが間に合うよう、お手伝いしに来ました。さ、もう食べ終わりましたか? では机にどうぞ」

 壁際の文机を手で示す。

 促されるまま万年筆をとったものの、目の前の原稿用紙は空白のまま進まない。当然だ。こんな特異な状況で書けと言う方が難しい。

 少女は俺を文机の前に座らせると、朝食の後片付けを済ませ、布団を干し、部屋の空気を入れ替えた。この手際の良さ。本当に妖精めいている……いや、そうじゃなくて。

「なあ」

「どうしましたか? 原稿進んでますか?」

 話しかければ、二言目には原稿の話。流されまいと思った。

「やっぱ気になるわ。迷子? 家出? 警察行った方が」

「いいんです! 信行さんは執筆に集中してください! 他のことは考えなくていいんです」

 その目に妙な説得力と気迫を読み取ってしまい、俺は年甲斐もなく言いくるめられる。仕方なく再び空白の原稿に向き合ったが、やはりどうにも捗らない。

 そもそも、じっと机に向かうことからして俺らしくないのではないか。根を詰めるより、適度に他の作業をした方が良いとも言うし。

 大きく伸びをした。

「煮詰まった。ちょっと休憩するわ」

「何言ってるんですか! まだ1時間も経ってませんよ」

「他にもやるべきことが溜まってるんだ」

 例えば、文机のガタつきを直そうとしていたし、ゴミ出しを忘れたゴミがベランダに置きっぱなしだ。後でやろうと溜めた洗濯物は、いよいよ標高を増している。

 だが俺がこれらを列挙しようとする前に、少女はこともなげに言い放った。

「それ全部、わたしがやっておきました」

「は?」

 そんなはずがない。まだ何も言っていないのに。

 信じられない思いで机を揺すった。ガタつかない。

 ベランダに飛び出すと、ゴミ袋が消えている。驚いて少女を凝視した俺の耳に、洗濯機の軽快な音が聞こえてきた。

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