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子供は天使なんかじゃない。

以前、母が僕たちの幼少期を回想する時、こんな言い方をした。

「まだ(主の本名)がかわいいかわいい天使ちゃんだったころ」


この言葉はきっと、「子どもが純粋でかわいかった頃」のような意味だと思う。
子どもの無邪気さは、成長に伴いある程度失われていくことが多いから。

だが僕は、ここではっきりと書いておく。


僕にそんな時期はなかった。


子どもも人間だ。これまで生きてきた過去世がある。
そして子どもが持つ気質やある程度の物の見方は、生まれた時、あるいは生まれる前から持っているものだ。

どんな過去世か、僕たちは夢見がちだが理性的で、妙にプライドが高く、頑なに人の感じ方を信用しない子どもだった。

周囲が提供してくれる「こうすると、もっと楽だよ」「こういう見方もあるよ」「まあ、騙されたと思ってやってごらん」という受容的な言葉を受け容れることができない。
言葉の裏を読むことが物心つく頃から身についていて、頭の中に成績表があり、本当に求められていることは何なのかを捉えて回答しようとする癖が身についていた。

それが本当の僕たちだ。

頭は回るが語彙力がなかったため、すべての性質を分かりやすく表に出した記憶はないが、もしそうしていたなら相当に扱いにくい子どもだっただろうし、僕は周囲からの言葉と己の中で発生する思考の処理に大きな負担を感じていたかもしれない。

そしてこの性質を持っていた記憶は、4歳ごろから持っている。
世間一般ではまだまだ「かわいい子ども」で通じる年齢ではないだろうか。

この頃から、そしてきっともっと前から、僕たちの気質は存在し、僕たちは「子ども」である以前に、己の思考と意識を持ったひとりの「人間」だった。

決して天使なんかではない。


問題は母の言葉が過去形であったことにもあると考えていて。

僕たちが天使「のように見えた」時期はもう過去なのだ。
どうやら僕は穢れ、親にとって扱いにくい子どもになってしまったらしい……。

僕はそれを幻想だと思う。

そもそも僕たちが天使のように純粋であったことなどないのだから。


だが直はじめ、「親を大好きでいたい」と願っていた幼いパーツたちはこの言葉を受けて傷ついた。

過去のことなので傷はもう癒えているが、あの切られるような感覚――そして、自分の穢れてしまった部分は駄目なんだ、切り取らなければならないかもしれないと感じた自己否定の感覚は、今でも鮮明に思い出すことができる。

ただでさえ不安定な自己肯定感の土台を削られた、あるいは他人が削ることを許してしまった、僕たちのあって見えないような自他境界が悔やまれる。


僕たちはもう親との和解を諦めたけれど、これ以上悲しい思いをする子どもが増えないように。

子どもは透明な天使ではない。
その中身にはすでに個性と呼ぶべき固有の性質が詰まっており、世界の見方をある程度持ってきている。

子どもを透明だ、純粋だ、何も知らないのだと見なすことは、親子双方にとって大きな負担と寂しさを生むことになる可能性がある。

そして間違っても子どもに「昔は天使『だった』」などと言ってはいけない。

仮に過去のかわいさ無邪気さを懐かしむのなら、その足元には信頼と愛情の土台が必要だ。




直也



画像はPixabayからお借りしています。

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