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すべては「その瞬間」のために
パリオリンピックの試合を生中継でみようとするとどうしても真夜中になってしまい、寝不足気味だ。
それでも、観てしまうのはなぜだろう(翌朝、早起きしなくちゃいけないのに、笑)。
元からミーハー気質ということもあるが、どの競技であれ、選手がこの時のためにたゆまぬ努力をしてきた集大成の舞台を見届けたいという気持ちが強い。
昨晩、金メダルを獲得したスケートボード男子ストリートの堀米雄斗選手が、果敢に難易度の高いトリックにチャレンジする姿には感動した。
堀米さんのようにどの選手も、「その瞬間」のために多くのことを犠牲にしてきたのだろう。
華やかにみえるオリンピック。出場するために、最高のプレイをするために、そして表彰台に上るために、彼らは日々我々のみえないところで、何年も地道な努力をしてきた。
だが、「その瞬間」のために、地道な努力をするということは、レベルはともあれオリンピック選手に限ったことではない。実は多くの人が体験しているのではないだろうか。
私が記者だった時は、スクープを取ることに命を燃やしていた。世間を騒がすようなスクープはなかったが、他社が後追いするようなスクープは何度かあった。そのために、夜討ち朝駆けもしたし、色々な取材先にアプローチしたりと、泥臭い作業をしていた。つまり、スクープをとることが「その瞬間」だったわけだ。
とある投資銀行のバンカーが以前、こう言われた。「日々、地味な作業で、激務をこなしているけれど、ディールが成立すると、あぁーこの瞬間のためにやってきたことだったんだな、と感じる」と。
そう考えると、今の私の「その瞬間」って何だろう?
残念ながら、今の職場での業務ではないかな、と思いながら、考えを巡らす。そしてnoteにいきつく。
私の記事が、一人でも多くのnoterさんの心に響いたとコメントを通じて感じられれば、私は「その瞬間」のために、書いている。
そして、記者時代にスクープをとったという瞬間よりも、今のほうが充足感を得られているのではないか、とさえ感じる。
というのも、スクープはマスコミ同士、要は内輪同士の競争心からくる意地の張り合いのようなもので、読者にとってはどこのメディアがスクープをとろうが、どうでもいい話だからだ。
今は、匿名と言えども、noterの皆さんと直接対話しているような感覚だ。
今日は書くのやめようかな、なんて思うこともあるが、「その瞬間」のために、日々頑張れる自分がいるのは間違いない。
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