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排除と優劣 愛国者学園物語105


 「ナチス関係者の追跡劇で、最もドラマチックなのが、ユダヤ人を強制収容所に移送して@@するという『最終的解決方法』を決めた人間、アイヒマンの拘束と裁判だと思います。『アイヒマンを追え!ナチスが最も畏れた男』などの劇映画だとか、『モサドファイル』あるいは『憂国のスパイ』というノンフィクションがその問題を取り上げています。イスラエルの対外情報機関モサドが、南米アルゼンチンでアイヒマンを拉致して、イスラエルに護送した話です。1960年のことでした」
「拉致か」
 「そうです。それが犯罪であるは、私にもわかりますが、イスラエルは同胞のユダヤ人を強制収容所に送り込んだ男を何が何でも捕まえたかったんでしょう。それに、彼らはアイヒマンを裁判にかけて真相を解明し、世界に見せつけることで、ナチスの非道さを訴えたかったのではないかと思います。あるいは、自分たちが正当な裁判をしていることを世界に示したかったのでしょうね。ナチスに殺された人々は、ろくに裁判も受けられなかったようですから、その対比ですね。


 ナチス党が支配していたドイツでは、裁判官までナチス寄りになっていたそうですが、私は詳しくは知りません。『アイヒマンを追え』には、戦後の西ドイツにはナチスに同情する政府高官が少なからずいたことが描写されています。そういう環境では、捜査の秘密を保持することは難しかったのではないでしょうか。あんなことをした連中を支持するなんて、私には理解出来ませんが」

 「支持者からすれば、ヒトラーはドイツ民族の誇りを取り戻し、偉大な第三帝国を築こうとした偉人なのだからね。国民は、自分たちを良くしてくれる指導者を見捨てはしないだろうな……。ええと、私が言いたいことは、戦後何十年経っても、ナチスやその思想の支持者はいるということ。そして、戦争犯罪の追求は終わらないということだ。私がよく見ているフランス通信社のニュースサイト AFPBBは、日本のマスコミが取り上げないようなニュースをよく伝えているが、その中に、21世紀の今、90歳を過ぎた老人がナチス時代の戦争犯罪を問われて裁判にかけられたというニュースを見たことがある。『今でも』そういう追求は終わっていないんだね」
「まだ続いているんですね」
「そう、続いている」
と言ってから、何かに気がついた。

 「アイヒマン裁判はどうなったんだっけ? 」

「その裁判は、エルサレムで行われ、世界中に報道されました。ユダヤ系で哲学者のハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』という裁判傍聴記をまとめています。私は読んでいませんが、学術書の老舗『みすず書房』が日本語版を出版しています」
と言って微笑んだ。
 「アーレントは、米ニューヨークの雑誌『ニューヨーカー』にその裁判傍聴記を書くために、エルサレムに出かけました。そこで彼女が見たものとは、元ナチスの恐ろしい表情をした人間ではなく、元気のなさそうな中年男でした。アーレントは裁判を傍聴して、『悪とは平凡な人間によって為される』という印象を持ったそうです。


 なぜアイヒマンのような平凡な外見の男がホロコーストの実行者になり得たのか。彼女はそれを解明しようとします。アイヒマンの裁判は続き、その様子は世界で放送されました。映画『アイヒマンショー 歴史を写した男たち』がそれを克明に描いています。その後、アイヒマンは死刑と決まり、62年に執行されました。遺体は火葬されて、その灰は公海上にまかれたそうです。埋葬地が、ナチス支持者たちの聖地になることを避けるためだとか」
 

 「社会的に危険な人間を処刑後に火葬して、残った遺灰を海に撒くというのは、時折ある話らしいね。あのオサマ・ビンラディンは水葬だったそうだが」
「そうなんですか」
「イスラム教徒の遺体は土葬にするのが慣例だという。だが、それでは埋葬地が支持者の聖地になるので、慣例に従わず、あの男を殺して遺体を回収した米軍は、あの男を海で水葬にしたとか。

 そうだ、まだある。A級戦犯の代表的人物である東條英機元首相は絞首刑に処されたあと、その遺体の扱いは不明だった。だが、2021年に見つかった、米政府の公文書にそれが書いてあった。GHQは遺体を火葬後、その遺灰を東京から50キロほど離れた太平洋に撒いたそうだよ。海に撒いたのは、遺灰が支持者に神聖視されるのを防ぐためらしい、とニュースでやっていた……。ごめん、余計だったね」

 

「いいえ。日本にもそういう人が、海に遺灰を撒くような人がいたんですね……。ええと、『エルサレムのアイヒマン』は分厚いので、私はパラパラめくるぐらいしか読んでいません」
「私も同じだよ」
「彼女の本は手に余ったので、その代わりにフランクルの『夜と霧』を読みました」
「ああ、その本は私も読んだ。アウシュビッツ強制収容所に送られた精神科医の記録で、収容所の様子がよく描かれていたよね」
「ええ、『夜と霧』のような本は私には衝撃的でした。それは、殺人工場と遺体処理工場が存在し稼働して、膨大な数の人間を殺した、という事実にショックを受けただけではありません。なぜ人間がこのようなことをするのか。自分たちが嫌いな特定の人種や集団を社会から『消して』しまえば、それで社会が良くなる。そういうことを考えて、実行してしまう人間たちがいたなんて、私には衝撃的でした」


 「そういう『排除の哲学』は、今もこの世にある。また、特定の人種や宗教を自分たちよりも劣等なものとみなし、自分たちの人種や宗教はそれより優秀なものとする『優劣のランクづけ』もよくある話だね」
美鈴はあることに気がついたが、それを口には出せなかった。
「残念ながら、あの当時と比べて、世界は変わっていないのではないか」
「そうかもしれません」
美鈴の声は弱かった。
「美鈴さん、あなたがそのような勉強で感じたこと、得たものは非常に貴重だ。どうか、それを私たち読者に伝えて欲しい」
美鈴の表情が少し明るくなった。

 美鈴が口を開いた。
「戦犯の問題はどこの国でも重要ですよね。大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の話なんですが」
西田の顔がほころんだ。
「私は、あの映画の音楽が好きなんだ」
と言うと、美鈴は
「坂本龍一は大した人ですよね」
と微笑んだ。

 「西田さんもご存知のとおり、ビートたけしが演じたハラ軍曹は、物語の舞台であった、外国兵の収容所で乱暴に振る舞っていました。でも、日本は戦争に負け、彼は戦犯として処刑されることになりました。その前日の様子が、あの映画の見せ場の一つです。彼は他の日本軍将校と同じように振る舞っただけなのに、戦犯にされて死刑判決を受けますが、もちろん、それに納得しているわけではありません。その困惑を、たけしは上手く演じていたと思います」
「うん。靖国神社とA級戦犯の問題は有名だが、ハラ軍曹のようなBC級の戦犯たちの問題はもう日本社会から消えているように思う。横浜で彼らの裁判が行われていたこと。あるいは、世界各国で彼らの裁判が開かれ、刑が執行されていたことは、もはや、ごく一部の人間しか知らないだろうね。そうだ、『私は貝になりたい』を思い出した」

続く

このニュース動画は今年6月7日のもの。


この動画は今年春に、ある映画館での上映を案内するもの。

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