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使命感から逃げる

あるブロガーというのか、フリーのコンサルで、SNSで集客している方を
私は細く長く、フォローしている。

会ってみたくて、お金払ってセミナーに行ったこともあった。直接何度かお話もした。

ただここ数年は、その方の発信を何となく眺めるだけだった。


先日、とあるセミナーをやると発信していた。
するとその人から珍しく「来ない?」とお誘いメッセージが来たのだ。
数年間眺めているだけだったので、直接はお久しぶり。

その時の私は
セミナー内容に関心もなかったし、仕事あるし、
何より眺めている数年で熱みたいなものが少し引いていて、
つまり行きたくなかった。
なので丁重にお断りした。

数日後その方が「集まらない、中止しようかな」などと発信している。

それを見た私は何を思ったか。咄嗟に
「行かなきゃ」
と思った。

慌てて、その方に連絡して‥
しまいそうになるのを抑えて
少し冷静に考えてみた。

何で「行かなきゃ」なのか。
行きたいわけじゃなく「行かなきゃ」と。

ねばならぬ、使命感のような

セミナー内容には未だ興味がない。
だったらこの使命感は何に対するものか。

その人、その人間そのものだ。

私はその人が好きだ。人として面白くて魅力的。
つまり、ファン。
その人が困っている。
「お客が集まらない」と言っている。

助けてあげなきゃ。

「私がお金払って
その人のためにセミナー行かなきゃ」

これが「行かなきゃ」の全文だった。


もうちょい考えてみた。

はじめのお誘いでは湧かなかった使命感。
なぜ今頃湧き上がってきたのか。

「集まらない、中止しようかな」

この言葉を見て、私は
私にしかこの人を救えない、みたいな
ドラマチックな使命感を抱いた。
その人が少し可哀想にも見えて、
私が行けばその人は私に感謝するだろうって。
これはある種のマウントなのかもしれない。

ここまで考えて、気持ち悪いと思った。
その人が幸せそうに発信しているときは
「ふーん」て眺めて、なんならちょっと嫉妬してるくらいな気持ちもあったのに(あ、嫉妬してたのか)
ここに来て「私にしか救えない」とか。
あぁ、気持ち悪。

そもそも助けてあげたいと私は思ったけど
その人本当に困ってるのか。

開催するセミナーに参加者来ないと言うわけだから、喜んではいないかなと。

でも困ってるとは言っていない、
助けてとも書いていない。

中止ならきっとまた、
その時間使って別の事考えて
別の方法で収益上げるでしょう。

私はただのファンだから
その人が喜んでくれそうなことをやりたい
と私が思った。
なんならお金振り込んだら別に行かなくてもいい
くらいの気持ちだった。
投げ銭だ。

さらに考えた。自分に問いかける。

もし行くなら有休取るよね。
くっそ忙しい今、その有休、その人のために取りたいの?

嫌だ。
一人でゆっくり出かけたい。
ゆっくりカフェ行きたい。
気になってたあの店に行きたい。

いま私は、一人でゆっくり休みたいです。

これが本心だった。

だからその人に連絡はしなかった。もちろんセミナーも行かない。

何が正しいとか、そういう話ではなくて
この一連の私の考えの答えは
「私は一人でゆっくり休みたい」になったので
一瞬よぎった使命感から、私は逃げたよ
という話です。

ちょっとお疲れの今の私と
使命感を天秤にかけて
お疲れの私を選んだ。

そうすると自分が決めたので、それでいい。

疲れてなかったら結果違ったかも。
でもいまのわたしはこれ。

とりあえず、有休取ることだけ決めた。
ゆっくりノートでも書こう。


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