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Time's Arrow Time's Circle その2

〈坂本優 Masaru Sakamoto〉
 
金曜日の放課後。正門で生徒たちの下校指導をしていた。 
 
「優先生!」
 
遠くから大声で呼ぶ声が聞こえた。いつもの四人組のJKだ。
 
「おー!なんだ?なんかくれんのか?」
 
笑いながら答えると彼女たちは体をクネクネさせながら上目遣いに言った。
 
「せんせい、お菓子ちょうだい」
「この前のポッキー美味しかった」
「わたしたち、せんせいのこと大好き」
「せんせー、今日は愛の誕生日だよ」
 
彼女たちは笑いながらおどけたように声を張り上げた。
 
「えーっ?おまえら、バレンタインのチョコくれなかったろ!」
「え?何?せんせい、チョコ欲しかった?」
「言ってくれればよかったのに」
「そうよねー」
「いくらでも作ってきたのにねえー」
 
昨日はこの学校に勤めてから初めて迎えるバレンタインデーだった。いつも明るく仲のいい彼女たちからチョコのひとつくらいもらえるのかもと期待していた。しかし、結果的にチョコは誰からもももらえなかった。
 
「え?チョコ欲しいって意思表示しなきゃならなかったのか?」
「そりゃ、そうですよ」
「でも、奥さんとかにもらえたんでしょ?」
「チョコ?今年はないなあ」
「えー?マジで?」
「来年、あげるわ、せんせい!」
「来年って、もう学校来てないじゃないか!」
 
彼女たちは今、二年生だ。来年のバレンタインデーは自宅学習期間に入る。
 
「チョコあげるために学校来るもん」
「マジか?」
「先生って奥さんからチョコもらえないんだ」
「うちのお母さん、お父さんにあげる!」
「そうそう、そうだよね」
 
彼女たちの話を聞きながら、不思議な寂しさを感じていた。愛する妻からのチョコレートか。自分は過去に結婚していた時期もあった。しかし、長い別居生活の果てについ最近、自由を手に入れた。今、そんな話をすれば大騒ぎになるだろう。
 
「んじゃ、来年のバレンタインデーを楽しみにしてるさ」
「じゃね、せんせい、バイバイ!」
 
彼女たちが正門から出て行く姿を見送って、なぜかため息が出た。自分の子供たちは今、どうしているんだろう?幸せな結婚生活のはずだったのに。
 
長女が生まれたとき、すごくうれしかった。自分にそっくりの娘にはどこかに死んだ自分の母親の面影があったからだ。
 
「もう、30歳になるのか…」
 
長女も長男もすっかり大人になってしまった。子供たちのことは忘れたことがない。しかし、子供たちが生まれると妻への愛情はどこかに消えてしまった。いや、はじめからなかったのかもしれない。いつも何か不思議な悲しみが自分の中にあって素直に喜べない自分をずっと感じていた。
 
「今晩、19時からって言ってたっけ」
 
今日はステラ先生の英会話教室だ。今週はそれだけを楽しみに過ごしてきた。彼女がどんな先生なのか。英会話教室で何を学べるのか。毎晩、退屈でお酒で気持ちを紛らわす時間が減るだけでもよかった。
 
 
信夫山短大は町中の住宅街の一角にあり、昔から多くの人たちに親しまれているミッション系の短大だった。駐車場に車を停め、表示に従い講義室に入るとすでにたくさんの受講生が席に着いていた。
 
赤いセーターを着たブロンドの長髪の女性が黒板の前に立っている。まるでモデルのような彼女は太陽のような笑顔で受講生たちに挨拶をしている。
 
「しまったなあ、もっと早く来て前に座ればよかった」
 
すでに講義室の席はほぼ埋まっていた。コロナの影響で長いテーブルには一人しか座れない。しかたなく優は一番後ろの真ん中のテーブルに座った。
 
「みなさん、コンバンワ」
 
彼女が上手な日本語で話し出すと受講生たちもいっせいに笑顔で挨拶をした。
 
「今日、初めてこの教室に来た人はいますか?手を上げて」
 
自分はそーっと手を上げたが、ほかには誰もいないようだった。少し恥ずかしくてステラの顔を見つめることができなかった。
 
「ハイ、初めまして!あなたのお名前を教えてください!」
 
ステラ先生は少し前に出ると元気よく、話しかけた。
 
「私は坂本です。坂本優です」
「坂本さん、ようこそ!少しだけ自己紹介をしてください」
 
突然のことに少し戸惑ったが、いつも生徒たちに語りかけるように自己紹介を始めた。高校教師の自分がこの教室に通うようになった理由、いつか海外に住んでみたい、自分の視野を広げるために多くの国に出かけてみたい、とにかく英語を上手に話せるようになりたい、そんな気持ちを大げさに身振り手振りを交えて熱弁した。
ステラは優をじっと見つめていた。時々、下を向いたり視線を窓にやって何かを必死でこらえているようだった。少し様子が変だなと思ったが話し出したら止まらない。ステラにはかまわずに話し続けた。
 
「先生よ、あんたはどこの先生なんだい?」
「辰の尾高校で国語を教えています」
「あ、そうなんですか。うちの孫がお世話になっています」
「ええっ?」
 
なんとその場にいた60歳くらいの男性の孫が優の学校の生徒だったのだ。ちょっとおかしくなって思わず笑ってしまった。
 
「優さん、ありがとう。今日からヨロシクオネガイシマス」
「え?あ、こちらこそ」
 
ステラに軽く頭を下げ、優は座った。
その日の英会話教室はとても楽しく和やかに終わった。
 
帰り際にステラはそばに近づいて握手を求めてきた。すごくいい香りがして緊張した。こんな美人の外人女性に会ったのは初めてのことだった。手を握ると心臓の鼓動が高鳴った。
 
「これから金曜日がとても楽しみです」
「オー、優さん、英語で話してください!」
 
二人は笑って別れを告げた。こらえてもこらえきれないほど楽しくなって口元の緩みが押さえられなかった。それにしてもすごく柔らかくて暖かい手だった。

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