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二重らせんの軌道を描いて——黒沢清『スパイの妻』 レビュー

ギサブキリコ

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時代の波にのみこまれる時、人はいかにして正気を保つか。暴力を背景に直線的な力が支配する時代に、優作と聡子は二重らせんを描くエネルギーとなることで、狂っていく時代の波から互いを守り、したたかに生き抜いていく。

舞台は太平洋戦争中の神戸。貿易会社の若き社長である優作は、当時敵国の商人とも交友関係を結び、緊張の高まる満州へも自ら世界を知るために渡る「コスモポリタン」である。優作と対立するように登場するのが、軍部の分隊長に昇格し神戸に移ってきた泰治だ。泰治は、優作夫妻とかつてからの友人であったが、次第に締め付けが増す時代の空気に逆行する優作周辺に、軍部として圧力をかけてくるようになる。

このふたりの対立する軸とは、別種の軌道を持った人物がいる。優作の妻、聡子だ。夫婦であるふたりのエネルギーは、互いに引きあいながらもひとつになりきることがない。真実を隠し、「信じるのか、信じないのか」と問い詰める優作に、一旦は「信じます」と答える聡子は、裏で優作の秘密の一部を敵の泰治に密告するという大胆な行動によって優作を「守り」、自分の軌道へ引きよせる。対して優作は、亡命先での再会を約束し密航船に乗り込む聡子を裏で密告し、泰治率いる軍部に捕えさせることで、聡子の意に反して彼女を「守る」。一本のベクトルに交じり合うことなく、相手の上すれすれをかすめあうことで、ふたりの二重らせんの力は勢いを増し、迫りくる時代の圧力を巧妙にかいくぐっていく。

タイトルは『スパイの妻』である。スパイの女ではない。優作は、自分は「スパイ」ではないと言い、聡子にも「スパイの妻」としてではなく自分として生きろ、と言う。しかし聡子は嬉々として「スパイの妻」と名乗る。泰治に表象される、暴力の元に直線に進む力とは対照的に、優作の力を自身に引きよせ、共にらせんの軌道を描かせることで、ふたりで生き抜いていくためのしなやかな強度を生みだしていく。ラスト、海辺で泣き崩れる聡子のシーンに次ぎ、その後の展開が白抜き文字で示唆され、映画は幕を閉じる。二本の軌道は、一旦遠くに離れても、ひきあう引力によって、ふたたび接近し始める。 

今作は脚本を、『ハッピーアワー』で知られる濱口竜介、野原位が中心となって制作し、黒沢清が監督を務めた。「共にいること、いつづけること」のテーマが今作でも別様に描かれる。周囲の圧力にのまれ自身を見失わないために、ぶつかりあうこと、一体となること、ではない、互いを追いかけあうように絡みあって進み、あらたな時代を生き抜く軌道をつくりだす。遠く離れてしまった時間にも、その力が働いている限り、それは共にいることと言えるはずだ。次にすれちがう時の出方をそれぞれに画策しながら。

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ギサブキリコ:神戸大学大学院人間発達環境学研究科

黒沢清 監督『スパイの妻』 https://wos.bitters.co.jp

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