見出し画像

【ホラー小説】eaters 第19話

◆あらすじと各話は、こちらから

 翌朝。
 
「お父さん、まだ? 私、急いでるんだけど」
 
 瀬奈が洗面所にやってくると、良一がまだ使っていた。
 
「あぁ、悪い、悪い。ちょっとやっちゃってな」
 
 鏡越しに、父と目が合った瀬奈の顔色が変わっていく。
 
 良一はティッシュで、何度もアゴを押さえていた。
 洗面台に置かれていたのは、髭剃ひげそり用のカミソリ。
 
 ゴミ箱へ捨てられたティッシュには、血がにじんでいる。
 
「……ったく、まいっちゃうよな」
 
 ボヤキながら、良一は新しいティッシュで傷を押さえた。
 血は、まだ止まってくれそうにない。
 
「……お父さん」
 
 瀬奈の肩が小さく震えだした。
 
 
 その頃、小百合は朝食の用意をしていた。
 家族三人分の朝食。
 瀬奈だけメニューが違うのも、沼澤家では日常と化していて、良一も嫌な顔一つしなくなった。
 
 最後の料理をテーブルに運んできた今、あとは良一と瀬奈を待つだけだ。
 だが、いつまで経っても二人は現れない。
 
 夏休みの瀬奈は別として、良一は今日も仕事だ。
 
「お父さん、早くしないと会社に……」
 
 しびれを切らして洗面所にやって来ると、目に入ってきたものに小百合は言葉を失った。
 
 あお向けで床に倒れている良一の腹に、瀬奈が顔をうずめている。
 真っ白だったワイシャツも、破れているところから赤く染まっていた。
 
「……瀬奈、何……してるの?」
 
 訊かなくても、一目見ただけで分かる。
 それでも小百合は、訊かずにいられなかった。
 
 ゆっくりと顔を上げた瀬奈の顔は、血にまみれていた。
 深い闇のように黒い瞳。
 鋭くとがった歯の隙間から、ダラリとぶら下がるいびつな形の腸が、良一の腹に繋がっている。
 
「お、お父さん、しっかりして!」
 
 良一の目は大きく見開かれたまま、瞬きすらしない。
 ワイシャツごと腹を食い破られ、内臓まで引っ張り出されている。
 すでに息もないのは、一目瞭然だ。
 
「……お父さんに……なんてことを!」
 
 瀬奈は、なおも良一の腹に顔をうずめようとしている。
 
「瀬奈! やめなさい!」
 
 小百合の手が瀬奈の肩に触れた途端、食事の邪魔をするハエを追い払うように、瀬奈はピシャリと小百合の手を払った。
 
「いい加減にしなさい!」
 
 狭い洗面所に、怒鳴り声が響いた。
 すでに夫が死んでいたとしても、これ以上、瀬奈の行為を許すわけにはいかない。
 
 小百合が瀬奈の肩に掴み掛かると、その手を瀬奈が握った。
 握られた左の手首の骨がきしむ。
 つい、この前まで病気だったとは思えないほどの強い力だ。
 
「……瀬奈!」
 
 目の前にあるのは、瀬奈であっても、瀬奈とは別の顔だった。
 左手の痛みとともに、夫を殺されただけでなく、その夫さえも食べ尽くそうとしている姿に、怒りが込み上げてくる。
 
 小百合は空いた右手で、黒い瞳の頬を思い切り叩いた。
 これまで瀬奈に、手を上げたことはなかった。
 
 だが、目の前にいるのは、瀬奈ではない。
 人間ではない何か・・、だ。
 
 すると、小百合の右手に瀬奈が噛み付いた。
 激痛が走った。
 鋭い牙が、深く食い込んでくる。
 皮膚を破り、骨まで砕けそうな痛みだ。
 
 あまりの激痛で、何度も手を思い切り振り払う。
 ようやく瀬奈の顔が離れていったあと、手に刻まれたいくつもの穴から、血があふれ出してきた。
 ボタリ、ボタリと、床に赤い血が滴っていく。
 
 おそるおそる視線の先を、自分の手から瀬奈に移す。
 瀬奈は赤く染まった唇の端からヨダレを垂れ流しながら、ジッと小百合の手を見ている。
 
 目の前にいるのは、理性も何もかもを失ったケダモノだ。
 黒い瞳に、鋭くとがった歯先。
 顔面も血で赤く染まっている。
 
 夫を食べていたケダモノの前で、自分までもが血を流してしまった。
 このままでは自分も……餌食にされてしまう。
 
 襲いかかる恐怖に、身体が小さく震え出した。
 背中にジットリと汗がにじんでくる。
 吸い込んだはずの空気も、肺にまでちゃんと届かない。
 突然、訪れた恐怖に、身体中の細胞が活動を止めているような気がした。
 
 と、その時、小さな震えは激しい痙攣けいれんに変わっていった。
 
        ◆
 
 海斗は町民プールの前で、瀬奈を待っていた。
 
 約束の時間を過ぎても、瀬奈は来なかった。
 何度かメッセージを送ったが、既読にもならない。
 電話をしても、呼び出し音が鳴り続けるだけだった。
 
 何か、あったのだろうか?
 
 海斗は、町民プールから離れるように歩き出した。
 
 
 やって来たのは、瀬奈の家だ。
 町外れで、近くには民家もない。
 手入れされた綺麗な庭が見える。
 
 海斗は玄関のチャイムを押した。
 応答がない。
 再び押しても同じだった。
 
 留守にしては、家の前に車が二台ある。
 誰もいないとは思えない。
 
 まさか、急に容体が悪化して、救急車で運ばれたのだろうか?
 
 海斗は手にしたスマホを見つめた。
 今もメッセージは既読になっていない。
 瀬奈と連絡も取れず、家に来ても誰も出てくれない。
 
 上級生が行方不明になり、次に真由子が行方不明になって、二人とも死体で発見された。
 まさか、瀬奈まで……。
 
 一気に不安が押し寄せてきた。
 考えたくもないことが、勝手に頭によぎってしまう。
 
 ……違う。
 瀬奈は……無事だ。
 無事に決まっている。
 
 海斗は、そう信じて家に目をやったあと、背を向けて歩き出した。
 
        ◆
 
 レースのカーテン越しに、窓から海斗の背中を見送っている者がいた。
 小百合だ。
 
 
 今日、瀬奈は友達・・と町民プールに行くはずだった。
 昨日の夕食で、嬉しそうに「明日、友達と町民プールに行く」と言っていた。
 てっきり同じクラスの女の子と行くのかと思っていたが……。
 
 
 少し前、家のどこからか、着信音らしき音が聞こえた。
 音をたどっていくと、瀬奈の部屋からだった。
 
 音は途切れてしまったが、ベッドの上にスマホが置いてある。
 それを見下ろしていると、再び着信音が鳴った。
 
 スマホに表示された名前は、浜田海斗だった。
 ……浜田。
 真由子の次に、瀬奈へ声を掛けてきた男の子だ。
 
 瀬奈は海斗のことも嬉しそうに話していた。
 背が高くて、スポーツが得意で、みんなの人気者だ、と。
 
 
 今、家にやって来たのは、おそらく海斗だろう。
 何度も振り返りながら去っていく海斗の顔を見たのは、これが初めてだった。
 高校生と思えるくらいに背が高く、がっしりとした体付き。
 
 間違いない。
 瀬奈が今日、約束していたのは海斗だ。
 まさか、男の子と約束していたとは思ってもみなかった。
 
 瀬奈が……男の子と……。
 
 小百合は赤く染まった手を震わせながら、レースのカーテンを握り締めた。

[続く]

◆第20話は、こちらから


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?