【ホラー小説】eaters 第20話
◆あらすじと各話は、こちらから
洗面所で床に倒れていた良一と、その腹に顔をうずめていた瀬奈。
小百合が目にした光景は、あまりにも残酷なものだった。
瀬奈を止めようとして、噛み付かれた手の痛み。
そこから流れ出した血。
黒い瞳の視線の先は、血で赤く染まった手。
自分までもが我が子の餌食になってしまう、という恐怖。
そのあと訪れた、突然の痙攣。
気が付いた時、小百合のすぐ目の前にあったのは、瀬奈の顔だった。
おそるおそる見下ろした先には、腹部を食い散らかされた夫の死体。
口の中に残る血の味と、小さな異物の感触。
手の平に吐き出すと、血にまみれた肉や内臓の欠片だった。
言葉も出ないまま、ゆっくりと立ち上がる。
鏡に映しだされた姿が、小百合の目に入った。
口の周りが、赤く染まっている。
唇の隙間から見えたのは、鋭くとがった歯の先。
そして、すべてが黒に染まった瞳。
鏡に映っていたのは、今の小百合の姿だった。
なぜ、自分まで……瀬奈のように?
激痛が走っていたはずの右手は、なぜか痛みがやわらいでいた。
見ると、深く刻まれたいくつもの穴が、ふさがり掛けている。
噛まれた時、瀬奈はダラダラと大量のヨダレをたらしていた。
食事の邪魔をされ、おあずけを食らったせいだ。
まさか、そのせいで……感染した?
小百合が今の姿から目を逸らせずにいると、鏡の中で瞳のすべてを染めていた黒が、何かに引き寄せられるように中心部に集まり出した。
瞳の色が元に戻っても、口の周りは赤く染まったままだ。
自分までもが夫を……食べてしまった。
意識がなかったわけではない。
全部、覚えている。
異常なほどの飢えと、強烈な血の匂い。
あらがえなかった。
瀬奈と一緒に、夫を食べてしまった。
残酷なまでの罪悪感が、小百合を襲った。
それと同時に残っていたのは、これまで感じたことのない興奮。
夫を食べてしまったというのに、不思議と吐き気もない。
むしろ、血と肉の味が愛おしいとさえ思えていた。
これでは、自分も瀬奈と同じになってしまう。
小百合は肩で息をしながら、頭の中に芽生えたものを振り払った。
あとに残ったのは、辛い現実だけだった。
自分のしたこと。
瀬奈が夫にしたこと。
この洗面所で起きたことのすべてに、小百合は気がおかしくなりそうだった。
視線を落とした時、洗面台に置いてある髭剃り用のカミソリが目に入った。
床に倒れたままの夫の顔に目をやる。
アゴに切り傷が残っていた。
ニチャッ……ヌチャッ……。
ベチャリ……ブチッ……。
気味の悪い音が、ひっきりなしに続いている。
咀嚼する音、肉や内臓を引きちぎる音。
瀬奈は今も、夫の腹に食らい付いている。
いっそ、狂ってしまえば、この現実から解放されるのだろうか。
無慈悲な現実を前にして、小百合の胸に深い闇のような靄が立ち込めた。
夫を殺したのは……瀬奈だ。
これまで、さんざん尽くしてきたのに。
瀬奈の幸せだけを願ってきた。
自分のことを差し置いてまで。
それなのに、この仕打ちだ。
今までの苦労と同時に、憎しみが込み上げてくる。
同じ中学の女子生徒を殺したのも、間違いなく瀬奈だろう。
自分の父親すら、そうしたのだから。
一度は信じようとしたのに、嘘を付かれた。
裏切られた。
瀬奈を……産まなければよかった。
様々な感情が入り混じってくると、小百合の目から涙があふれ出してきた。
頬を伝ってポタリ、ポタリと雫が洗面台に落ちていく。
新薬を決めた時、誓ったはずだ。
瀬奈の一生は、自分が責任を持つ、と。
娘のしたことは、自分が責任を取らなければならない。
瀬奈を殺して……自分も死のう。
小百合は、今も肉を食らい続けている瀬奈の首に、手を掛けた。
激しく抵抗されたが、今度は小百合も力では負けていなかった。
あふれ返るほどの血の匂い。
口の中に残る、血と肉の味。
責任を取る、という強い意志。
それらが小百合の瞳を再び黒く染めた。
細い首を絞める両手に力を込めると、苦しさで歪む瀬奈の瞳が元に戻っていった。
「……さん、今まで……ごめ……んね」
瀬奈の最期の言葉だった。
さらに手に力を込めると、ボキッと骨の砕ける感触が伝わってきた。
力を失った瀬奈の身体は、良一に覆いかぶさるように重なった。
手を離したあとも、小百合の両手は震えていた。
同時に、瞳の色も元に戻っていく。
小百合は息を荒くしながら、その場でへたり込んでしまった。
しばらくの間、何も考えられずにいたが、やり遂げなくてはならないことが、まだ残っている。
今度は、自分が死ぬ番だ。
今まで、自殺なんて考えたこともなかった。
どうすれば死ねるのだろうか。
手首を切る。
首吊り。
飛び降りや身投げ。
薬の過剰摂取。
それから……。
あらゆる手段を思い描いているうちに、思考が止まった。
邪魔をしていたのは、あふれ返るほどの血の匂いだ。
甘い誘惑が、いつまでも鼻をついてくる。
自分では、どうにもならない。
本能が、それを求めてしまう。
今になって小百合は、瀬奈の気持ちが分かったような気がした。
責任を取る方法は一つ。
……とは限らない。
立ち上がって、床に横たわる二人を見下ろした時、玄関のチャイムが鳴った。
去っていく海斗の背中を見送りながら、小百合は赤く染まった手で真っ白なレースのカーテンを握り締めた。
瀬奈が約束していたのは、男の子とのデートだった。
だが、瀬奈を野放しにしていたら、被害はもっと増えただろう。
すでに三人も殺して……食べたのだから。
もしかしたら、見付かっていないだけで、ほかにも被害者がいたかもしれない。
海斗も、いつ瀬奈の餌食になるか分からなかった。
これでよかった。
いや、これしか方法はなかった。
瀬奈を止めるには……これが正解だった。
小百合は自分のしたことを正当化し、洗面所に戻っていった。
◆
夕食は、小百合一人だ。
用意をするのも、自分の分だけで済む。
小百合は、まな板の上に肘から下の細い腕を載せた。
出刃包丁で、骨に沿って皮膚ごと肉を削いでいく。
包丁を握る手にあった噛み傷は、うっすらと痕が残っている程度で、治りかけていた。
左手首の痛みも、今はない。
冷蔵庫と冷凍庫には、たくさんの肉が入っている。
しばらくの間は、買い物に行かなくて済みそうだ。
まな板の上にあるカットされた肉を一つ、小百合は口に運んだ。
瞳は黒く染まり、肉を噛む歯の先がとがっている。
「……もう一つ、だけ」
切り刻んだ肉を一つ、また一つと口にしていく。
「瀬奈とお父さんは……お母さんが責任を持って、最後まで食べてあげるからね」
小百合が肉に向けて呟いた。
その顔は肌の艶もよくなり、若返ったように見えた。
[続く]
◆第21話(最終話)は、こちらから
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