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元うつ病ボウラーの自己紹介

はじめまして。タイトル通り、元うつ病患者のbbボウラーです。
私は北国、青森県でボウリング場スタッフ兼ドリラーをしています。
このnoteでは、私がうつ病発症から現在社会復帰に至るまでの概要と今後の活動予定について書きたいと思います。かなりボリュームがありますが、興味のあるところだけをさらっと読んで、少しでも私について知っていただけたら幸いです。



うつ病の発症とボウリングとの出会い

・大学院卒業間近でのうつ病発症

当時の記憶は思い出すだけで気分が暗くなります。就職先も決まり、あとは修士論文を書いて、春から新社会人として働くのが当たり前だと思っていました。大学生活自体はとても充実したもので、研究テーマは面白いと感じていましたし、やりがいもありました。英国に研究発表をしに行き、若手の最優賞をもらうこともできました。就職先は色々悩みながらもたくさんの人の話を聞き、最終的には同業種の中でも自分に一番社風があっていると思える会社に内定をもらえました。彼女もいました。
でも、
日々のハードワークと将来の何となくの不安から私は徐々に疲弊していき、そして、ついにはベットから起き上がれなくなりました。当時の記憶はかなり曖昧なものですが、2〜3日はベットの上で必要最低限のカロリーメイトを食べていたようです。連絡つかないことを心配した彼女が私の部屋に来て、それからすぐに地元に戻り精神科の病院へ。診断の結果は『うつ病』でした。断片的な記憶ではありますが、診察してくれた先生が言った言葉を今でも覚えています。「あなたに外傷はないですが、例えるならば、大怪我をして大量出血している状態。だからあなたは今はただ休むことに専念してください。」
今、思い返しても色々な感情が蘇りますが、とにかく自分が惨めでした。自分のやらなければならない沢山のことから逃げたように感じていました。これからようやく社会人として、親に恩返ししていこうと思っていたのに、結局また親の世話になっていることも嫌でした。感情を整理できなくて、ただただ泣くことしかできない自分がとてつもなく弱い存在に感じました。

・楽しい思い出に誘われるようにボウリング場へ

季節は少し進んで、ほんの少し回復した頃、当時付き合っていた彼女に別れを告げられました。一番信頼していた人に裏切られたように感じ、本当に辛かった。どんなに辛い時でも一緒にいてくれるというのは、とても難しいものだと踏ん切りがついたのはかなり時間が経ったあとでした(笑)

うつ病と失恋でボロボロの私を救ってくれたのはボウリングでした。大学時代、よく研究の待ち時間を利用してボウリングをしていました。その楽しかった記憶を辿って、流れ着いたのが地元のボウリング場でした。入店すると

カーン(ボールが当たってピンの倒れる音)

衝撃でした。ストライクとスペアのラッシュ!自分よりも40も50も年上のシニアの人たちが、ボールを自在に操ってボウリングをしていました。のちにそれが健康ボウリングの練習会と知るのですが、とにかくレベルが高く感じ、自分が今までやっていたのはボウリングではなくただの球遊びだったことに気づきます。そしてボウリングをしているみんなが楽しそうでした。若者が日中からボウリング場にいたものですから、最初はシニアの方々には大変不思議がられましたが、すぐにとても可愛がってもらいました。ボウリングの世界に引き込んでくれたのは、間違いなく声をたくさんかけてくれたシニアの方々のおかげで本当に今でも感謝しています。

約5年間のうつ病との戦いと現在

・長い闘病生活〜良くなったり悪くなったり〜

ボウリングと同じでうつの症状も良かったり悪かったりを繰り返しました。体調が良い時は、自分からボウリングに行くほど積極的に行動できました。しかし体調の悪い時は人に会うのが苦で、何度も人生を諦めかけました。

特に自分に合う薬に出会うまでは本当に辛かったです。夜は寝付けず、さらにぐっすり眠れなかったり、朝はだるさで起き上がれない。何の薬か忘れましたが、処方された薬の中には副作用で味覚がおかしくなり、水を飲んで苦味を感じるようにもなりました。夜中眠れないために、腹を満たそうとして間食をしていました。薬の副作用もあり食欲が進んだことにより、体重は最大で30kgも太りました。(現在はそこからー10kg)

ボウリングの上達度合いも大変寂しものでした。やっている間はとても楽しい。でも、どこかボウリングに全集中できなくてそして何より疲れやすい。それに後に明らかになったことですが、作ってもらったマイボールが自分の手の特徴と合っておらず、また扱う技術も全く追いついていませんでした。自分にはセンスがないと思う時期もありましたが、それでもボウリングをやめなかった自分を褒めたいと思います。何故ならやめなかったから、今の自分があり、そして運命の出会いをボウリング場で出来たからです。
詳しくは割愛しますが、結論から言うと、当時うつ病の私でもボウリングという共通の趣味を持つ彼女ができ、4年ほどお付き合いしたのち結婚しました。この後にお伝えする、大きな決断ができたのも妻のおかげでありボウリングが好きで続けたおかげでもあります。

たまたまですが、闘病中、辞書で『うつ』と引いたことがあります。どうせネガティブなことが書いてあるだろうとおもっていましたが、逆に辞書に励まされたような気になったことを覚えています。
鬱‥⑴草木がむらがり茂る⑵物事の盛んなさま、⑶とどこおる・こもりふさがる⑷気が塞ぐ、晴々としない。
(2)の意味はつまりは鬱没を指し、これは『うちにこもっていた意気が高まって外に出ようとする様。また、意気が盛んな様。』と言う意味だと知った時、まさに今の自分はボウリングに対して鬱なんだ!と妙に納得したことを覚えています。自分が鬱である事を正面から認め、ネガティブな気分のふさがった鬱だと立ち止まるより、ボウリングに対して本気で向き合いボウリング関係のことが何かしたい、表現したいとプラスな意味の鬱状態になっているんだと解釈ができ、頭の中の霧が少し晴れたような気がしました。

実家に帰省して、しばらくして、気力もだいぶ回復したあたりに(うつと診断されてから約1年とちょっと)、家業の農家を手伝うことにしました。正確には本気で後継になるべく頑張ろうと思っていました。家族の役に立ちたいのはもちろん、自分でお金を稼ぎたいと思ったからです。
生きていれば、お腹は空くし、欲しいものだって出てきます。これは誰にでも当てはまることで、病人だった私も例外ではありませんでした。そしてボウリングするのにも結構お金がかかります。農業自体はやりがいがあって、作物を生産して出荷するまでは学ぶことが多くて刺激がたくさんありました。もしかしたら、良いものをつくって販路を拡大して沢山稼げるかも?と色々思案したものです。
しかし、うつ病だからと言うのは言い訳かもしれませんが、体力的には本当にきつかったです。前述したように眠れずに一晩を過ごし、朝早くから肉体労働をするというのはかなり過酷でした。そして、あるあるかもしれませんが、家族間で仕事をするとどうしても意見の対立が強く出る場面があるのも精神的にかなり負担でした。気づけば、父のことを少し遠ざけるようになっていました。
何より、雨の日でないとボウリングができない!
これは自分にとっては苦痛以外の何もでもありませんでした。晴耕雨読という言葉がありますが、私の場合は晴耕雨ボウリングでした。もちろん仕事が終わった後もボウリングに行くことはありましたが、大抵体力的にかなりしんどく、大した経験値が得られずただ疲れる為に投げただけという日が多々ありました。これは長い人生でずっと続けていくのは不可能だと思いました。

最終的にうつ病を含め人生が好転したと思った決断


うつを中心として、仕事・ボウリング・人間関係で気分は良くなったり、悪くなったりを3年以上繰り返しました。ある時から、ボウリング場で働ければこんな思いせずに済むのでは!? と思い始めるようになります。そして妻の後押しもあり、ボウリング場で働くことを決意します。普段からお世話になっていた地元センターの社長にはあっさり快諾してもらい、ここから私のボウリングライフは一気に加速します!!
ボウリング場で働くことは、自分にとってはかなりプラスなことばかりでした。コロナ禍の影響で時短営業をしていた当センターは午後から営業をしていました。これは朝が弱い私にとって都合がよく、夜間型にはなりましたが規則正しい生活を送れるようになりました。また、仕事を通してボウリングに関わる専門的な知識を得ることができました。それは投球する技術のだけではなく、ボウリングに必要な道具の知識やレーンのメンテナンスの知識、ボウリングのドリルの仕方など、普段ボウリングしているだけではわからなかったことを沢山学びました。
そして、何より自分の好きなことをしてお給料をもらえ(農業時代より高く)、ゲーム代も従業員割引で安くなったことが大きかったです。趣味がボウリング以外あまりないので、そこにかかる出費を抑えられことは、金銭面でも少し余裕が生まれました。一か八かでしたが、人生を賭けた転職は、今現在でも上手くいったと思っています。

・現在のお仕事とnoteを始めた理由

ボウリング場の仕事内容
現在も地元のボウリング場で元気に働いています。この仕事になってから精神的に落ち込むことはほぼなくなりました。仕事の内容としては、接客、プロショップ関係(ボールのドリル、メンテナンス等)、レーンの管理、事務作業等、実は色々ボウリング場のスタッフも働いています(笑)特に事務作業で私は重宝されていると感じています。大学時代、嫌というほどプレゼンやデータの管理をしてきましたから、資料の作成等は他の従業員よりも慣れていました。特にパワーポイントとエクセルを多少なりとも使えるのが強みで、掲示物の作成やチラシ作り、リーグ戦の管理などはほぼほぼ私の仕事になっています。大学で何を学んで、社会・仕事に生かすかは本当に人それぞれでいいんだと思ったきっかけにもなりました。接客の中には、イベントを通してお客さんと一緒にボウリングすることも含まれます。仕事でボウリングをするので、普段の試合やプライベートとは全く状況が違いますが、それでもボウリングを他の人とするのは大変楽しいものです。

私がnoteを始めたいと思った理由

  • 私と同じく、辛く苦しんでいる人に少しでもnoteを通じて元気になるきっかけや元気になるイメージを持って欲しい。

  • ボウリングの知識や技術を共有したい

  • ボウリング業界に危機感を持っており、微力でもボウリングに興味を持ってもらうきっかけを作りたい

これらについては、実際にnoteの記事を通して表現していければと考えております。


今後の目標


・プロになるか、インストラクターになるか、そもそもなれるのか‥

ボウリング場のスタッフとして働くことには何も不満はないのですが、やはりボウリングをする身としては高みを目指したくなるものです。ボウリングの高みは何なのかと言われれば、ひとつわかりやすいのはプロの資格を取ることだと思います。私の場合、競技性を強く求められ、勝ちと負けがある世界に飛び込むのはかなり勇気が必要です。また、ボウリングの魅力を伝えたいと思う気持ちが強いこともありインストラクターという道もあると思います。どちらにせよ、私にとってはかなり高い目標になるかもしれませんが、皆さんに宣言することで自分を律したいと思います。
35歳までにプロボウラーもしくは1級インストラクターになる!

・ボウリングで救われる人が私以外にもいるかもしれない!

ボウリングで私は救われました。これは間違いない事実です。同じようなことで悩んでいる人も、何かのきっかけで事態が好転することはあり得ると思います。私の場合は、たまたまボウリングでしたが、きっかけは人それぞれでタイミングも人それぞれだと思います。私にできることは、私の闘病中の出来事を紹介して、失敗談や上手くいったきっかけなどを情報発信することだと思います。もし、ボウリングに興味がでる人がこのnoteを通して増えたら幸せなことだなぁと思います。
そして、ボウリングをするにしても悩みは尽きないと思います。ボウリングは上手くいかないことの方が多いということを知ってもらいたいです。(それを楽しめる人は相当ボウリングのセンスがあると思います。)技術的なことや知識的なことを知るだけでも上達する場合が多々あると感じているので、noteを通して少しでも悩み解決のお手伝いがしたいです。



ここまで読んでくださった方々へ
長く読みづらい文章だったと思いますが、
ここまでたどり着いていただきありがとうございます。
今後は、
うつ病との向き合い方
ボウリングに関わる情報
日々のボウリング日記
を更新していきたいと思います。
気長に更新をお待ちしていただければ幸いです。



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