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多様性そのものに価値はない(2)

多様性にもいろいろあります。多様性の多様性です。でも今、特定の「多様性」だけが「多様性」になっていませんか?

 
このシリーズ(…になるかな?)「多様性そのものに価値はない」を書き始めたきっかけは、日本国外に住むわたしが、日本語空間(日本+ネット上の各種日本語サイト)で、「多様性」「ダイバーシティ」という言葉がひんぱんに使われるようになっていることに気づいたことです。そこに、「多様性を尊重するべき」「多様性の時代だ」と無批判に唱える傾向を感じました。いったい多様性をどのようにとらえているのだろうか?多様性にもいろいろあること、多様性の多様性を考えているのだろうか?と疑問に感じました。

多様性そのものには価値はありません。多様性の実現そのものを目標にすることは無意味であり、そうすると逆に、問題が生じる場合があります。

「多様性そのものに価値はない(1)」で書いたとおり、多様性の重視・促進・確保に努めている(と自ら公言している)日本企業が、実際に何をしているかを見ました。一般的な傾向として、特定の属性をもつ人が組織に含まれていると「多様性」があり、そういう人が適切な配慮を受けたり、能力を発揮できたりする制度・環境が整っていると「多様性」が尊重されたことになるようです。

ここにはヨーロッパで白人が圧倒的な多数派を占める組織が「多様性に欠ける」と形容される場合の「多様性」のとらえ方に共通するものがあります。

つまり、ある特定の属性へのこだわりです。

ヨーロッパで、ある組織に非白人が少ないと「多様性に欠ける」と批判する人は、人種へのこだわりがあり、その組織の白人メンバーのあいだに存在するはずの人種以外の面での多様性を無視しています。個性の多様性はそのひとつです。

「多様性そのものに価値はない(1)」を書いてからも、多様性について日本語で書かれたものを読み続けています。そこでわかってきたのは、「多様性」を促進する取り組みにおいて、性別・性自認、性的指向、障害の有無といった属性における「多様性」ばかりが重視され、もてはやされていると感じている人がいることです。

たとえば、(1)を書く際にウェブサイトを参照した企業の中には、「多様性」を尊重して、パートナーが異性か同性かにかかわらず、事実婚をしている社員を人事制度上、結婚しているとみなすところがありました。また、同性間の事実婚をしている社員のみを法律婚をしている社員と同様に扱う企業もありました。

後者の企業に関して、わたしはカッコ内に(異性間の事実婚は?)と書きました。この企業で、異性と事実婚をしている社員が同性事実婚の社員と同じ恩恵を受けられないなら、これは異性愛者差別ではないでしょうか?LGBTへの配慮ばかりに躍起になって、男女カップルのさまざまなあり方、そう、多様性まで気が回らなかったと勘繰りたくなりませんか?

このように、個人レベルではなく、特定のマイノリティー・グループを特徴づける属性における「多様性」のみにこだわることは、当該グループに属さない人を十把ひとからげに同質とみなすことになります。けれど、人間の多様性なんて、何通りもの切り口があります。人が複数集まっていれば、すでに多様性は存在していると(1)でも書きました。

多様性とは、見る目さえあれば、人間の集団に常に存在しているものです。

でも、こう書くと、ヨーロッパで人種的多様性へのこだわりがあり、日本で「多様性」というと障害者やLGBTなどのインクルージョンの話になるのは、そういう人たちが少数派、社会的弱者としてこれまで差別され、排除されることが多かったので、それを是正する必要があるから当然だと論じる人がいることでしょう。

すでに日本には米国起源のDEI (Diversityダイバーシティ, Equityエクイティ・公平性 & Inclusionインクルージョン・包括性)が上陸していて、DEIコンサルティング業も存在し、多くの組織が「これが、これからのやり方だ」という感じになっているようです。だから、このうちエクイティ・公平性の概念も問題なく受け入れている人もいるのでしょう。(本当はどうなのか、教えてください!)それなら、上記の異性愛者差別のような多数派差別や少数派の優遇、言いかえれば逆差別に賛成な人もある程度はいるのでしょう・・・か?

そうです。DEIのエクイティは、逆差別のことです。ネット上で読めるエクイティの日本語での解説には、一概にこのように書いてあります。―エクイティは、平等(equality イクアリティ)とは違い、人それぞれの違いを考慮して「人ごとにサポートの度合いを変える」とか、「スタートラインを整備する」ことで、「公平な機会を提供する」ことです。

「人それぞれの違いを考慮するなら、多様性の尊重だ。いいことだ」と思いましたか?

企業のセミナーなどでDEIを学んで、「D&Iはまだわかるけど、Eってなんだか・・・」と感じていたあなた!その違和感は正常な、健全なものです。失わないでください。

「多様性そのものに価値はない(1)」でわたしは、昭和な日本企業がダイバーシティ路線に切り替えるたとえ話を書きました。そして、この企業が差別的な採用基準をやめ、能力や適性重視の合理的でフェアな採用を実践した場合の、理想の世界と現実の世界での結果を書きました。

現実の世界では、フェアな採用をしても、いわゆる「多様性」が実現するとは限りません。「多様な」応募者が集まっても、雇用者側の条件を満たす応募者が「画一的」になる可能性があるからです。これは、上記のとおり「能力や適性重視の合理的でフェアな採用」をしたから、つまり能力主義(メリトクラシー)を実践した結果です。

また、この日本企業がダイバーシティ路線にのってマイノリティー採用枠をもうけるなら、基準に満たない応募者でも採用されるかもしれないとも書きました。これは米国起源のaffirmative action (アファーマティブ・アクション、ここでは略してAA)です。AAの日本語訳は「肯定的措置」ですが、フランス語訳はdiscrimination positive(ディスクリミナシオン・ポジティヴ)で、肯定的差別=逆差別です。

DEIのエクイティはAAから派生したと言えますが、エクイティはAAより曲者です。DEIコンサルタントがエクイティの解説にきまって使うイラストには、身長が違う3人がそれぞれ高さの違う踏み台をもらって、塀の向こうの景色が同じように見えるようになったり、リンゴに手が届いたりします。DEI提唱側は、これを「公平な機会の提供」「機会の公正化」「誰もが成功できる機会の提供」などと表現します。

でも、よく考えてください。3人とも景色がちゃんと見え、リンゴを手にしています。全員が同じ結果を達成しています。これは機会の話ではありません。正確には、エクイティは「結果の平等」のことです。

エクイティが障害者のインクルージョンのためなら、問題はなく、逆差別でもありません。イラストの「踏み台」は点字や手話通訳、スロープやリフトのようなもので、情報や目的地へのアクセスを保障します。けれど、これはDEIというコンセプトが導入される以前からも、いろいろ遅れをとったりしながらも推進されていることです。バリアフリーとかアクセシビリティとか言ってませんでしたか?(今でも言われてますか?)

障害者のインクルージョン以外で推進されるエクイティは、本来は「結果の平等」のことです。究極的には、「クラス全員で手をつないで同時にゴールする」ことを目指しています。少なくとも、DEI発祥地の米国での理論的な意味はこうです。人類史上、現実の社会で一度も達成されたことのない「結果の平等」を目指しているのです。

国外から日本に新しいコンセプトが導入され、カタカナ語で流通しだすと、受容の仕方のずれや社会環境の違いのせいで、内容が変わっていくことがよくありますよね。DEIとくにエクイティもそうなることを願わずにはいられません。

米国でAAやDEIが生まれた背景には、奴隷制度に端を発する人種間格差があります。日本に同じコンセプトをそのまま取り入れるのは非現実的です。

AAもエクイティも、「正しく」実施すれば、能力主義の放棄になります。個人のそれぞれ異なる能力や適性、まさに多様性を無視して、結果の平等をめざす方策です。

ただオフィスに左利き用のハサミを用意するといった話ではないのです。

(わたしはハサミは左利きです。左利き用ハサミを使ったことはなく、不便に感じたこともありません。)
                                                       
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「障害者」という言葉について
 いつ頃からか「障害者」を「障碍者」や「障がい者」と書く動きがありますが、わたしは自分で書く文章では「障害者」と書きます。これは、教育社会学や障害者問題などを専門とするある研究者が「障害者」と表記する理由をお書きになっていたのを読み(以下)、それに賛同するためです。

・・・ひとつには、言葉を変えたところでかれらに向けられたまなざしが変わり、かれらを取り巻く生活世界が劇的に変化するとは思えないと考えているからである。そして、ふたつには、私は「ショウガイシャ」と呼ばれる人々の抱える「障害」は、まさしく「害」以外のなにものでもないのではないかと考えているからである。

堀家由妃代「障害と教育」、平沢安政・編『人権教育と市民力』

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