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「置かれた場所で咲きなさい」の呪縛
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が嫌いだ。
どうしても受け入れ難い。
本屋に行くとこの本が平積みになっていた時期もあったが、タイトルが気に食わなくて、一度も手に取ったことはない。だから、内容を知っているわけではないのだが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉から、「今あるものに感謝しろ」とか「心の持ち方を変えろ」とか言われそうで、それがどうしても受け身に聞こえてしまうのだ。
勿論、感謝することや、自分の心をコントロールすることは大切だ。でも、環境を変えるという選択肢があってもいいと思うのだ。
忍耐と我慢は異なる。
辞書を引けば、どちらも「耐え忍ぶこと」とある。ただし壁にぶち当たった時、忍耐のある人は目的を果たすための行動をとるが、我慢する人は辛いことに耐えるために自分を抑えてしまう。つまり、我慢には「こうしたい」という欲求がないのだ。「こうしなければならない」とか「仕方ないからこうする」のように、ネガティブ思考で受動的になりがちだ。
でも、生きていく上で、絶対にしなければいけないことってあるのだろうか?
法律は守るとしても、その他のことはやってもやらなくてもどちらでもいいんじゃないか?
だから辛いなら、学校に行かなくてもいいし、仕事だって辞めてもいいと思う。夫婦関係で辛い思いをしてるなら、離婚したっていい。こう言うと、「でも家族がいるし・・・」、「周りに反対されるし・・・」って声が聞こえてきそうだけど、それって我慢するための言い訳であることが多い。
今いる場所や目の前の事から離れるのは、逃げることとは違う。
逃げることは自分の心の声を無視すること。心の声って無視し続けると、聞こえなくなってしまう。何を大切にしたいのか、何を守りたいのか、見失ってしまう。心の声を拾ってあげられるのは自分だけ。自分の幸せを一番に考えてあげられるのも自分だけ。
自分の幸せがわからなければ、他人の幸せも考えられないだろう。
悩んで考えて、その結果が環境を変えるという選択なら、それでいいじゃないか。
置かれた場所で生き続けるより、生きたい場所を見つけられる、そういう生き方を望んだっていいと思うのだ。
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