心。わからないのも、わかろうとするのも。
精神疾患ってどれくらい辛いのかわからないよね。「身体の一部がないわけでもないのに」「入院生活必須の癌とかでもないのに」「ご飯食べられない環境なわけでもないのに」と比べられては「辛くないでしょ」「辛いのは自分の心のせいでしょ」と言われてきた。もしくは「みんな辛い」「あなただけじゃない」
心の状態を目で見られればいいのに。頭の中の絵や文字を映し出せるモニターがあればいいのに。私はどれくらい辛いのだろう。どの程度なら「辛い」と言うことを許されるのだろう。
今、障害者・障害児心理学を勉強している。自己理解のため心理学を勉強し始め発達障害や精神疾患の知識を得られればと思っていたが、知的障害や四肢不自由の状態に共通点を見つけて驚いている。つい先ほど四肢不自由者の章で「中途障害」について学び衝撃を受けた。私と同じだった。トイレから出られなくなって学校に行けなくなった時の私の心情が書いてあった。先に言うが「わかる」とは思わない。私は五体満足だし身体を動かすことに不自由を感じていない。だから心が同じだとは思わない。ただ書いてある文章は私の心と同じだった。私の不自由は膀胱だ。そしてそれは心のせいだ。
神経性頻尿症。今もこの名前が使われてるかはわからないが17年前この名前で診断を受けた。トイレに行けない状況への恐怖心から外に出られなくなった。トイレから出た瞬間、膀胱に重いような浮遊してるような発光してるようなザクザクしてるような、この感覚を他人と共有したことないからなんて形容すればいいかわからないが、とにかく違和感を感じ続ける。尿意を正常に感じられなくなる。常に感覚があるせいで麻痺しているような、とにかく不快で不便な状態だ。そして膀胱にこれを感じると頭の中ではパニックが起こる。それしか考えられなくなる。音、景色、人、空気、全ての刺激がうるさくなる。思考から抜けられなくなる。黒に飲み込まれる。消えたくなる。
医者に「身体は正常だよ」と言われた。精神的なものだからと抗不安薬だかなんだかを飲み始めた。心のせいだからと言われていたが、私が感じていたのは身体の変化だ。無意識下の心の動きよりも感じていたのは圧倒的な膀胱の違和感、今までは感じていなかった身体の変化だ。トイレから出られなくなった。学校に行けなくなった。座ってご飯を食べることもお風呂に入ることも出来なくなった。友達と遊びに公園に行くのも車に乗って買い物に行くのも出来なくなった。将来働いているイメージも出来なくなった。“出来ない“だらけになった。能力の問題じゃない。何をするにもその場に身体を保つのが出来なくなったのだ。全てが出来なくなった。そう思った。辛かったのはこの身体的違和感が誰にも伝わらなかったこと。「気のせいだ」「心のせいだ」とそれは間違ってはいないのだろう。でも「身体が前と違うのに」「身体が反応してるのに」とずっと思ってた。何で伝わらないんだ、見えないからか、そうずっと思ってた。
四肢不自由と違うのは原因が心にあるところだろう。自分の内にあるもののせいだから、「自分のせい」で「自分の努力次第で何とかなる」ものになった。努力次第で、時間が経てば、治るはずだった。結果はどうだろう。治ってなどいない。不適切な認識と治療で状態は拗れて精神疾患の数は増え、「心のせい」のその心は発達障害の特性も絡んでたなんて17年後に発覚した。私の努力は何だったのだろう。私は今も“出来ない“ままだ。
持ったことない感覚を想像することは出来るだろうか。病気になった後の私はその感覚を説明する言葉を持っていなかった。それを説明できる言葉は存在しているのだろうか。認識されないものに言葉はない。共有されないものに言葉はつかない。どんな言葉を使ってもその感覚を持たない人に伝えることなどできないのだろう。だからこそ、人の辛さなど比べられないだろう?何に共感している?共感できたものにしか存在を許さないのか?それとも私の辛さなど本当に存在していないのか。私は本当に辛かったのだろうか。「同じ」と言えない辛さは、「わかる」と言えない辛さは、これらは正確で、恐れだ。「心の疾患と同じにするな」と言われるのを怖がっている。同じじゃないよ。同じじゃないけど、私の辛さは、じゃあいつになったら認めてもらえる?あなたが持たない感覚で、言葉が存在しない感覚を、いつその存在を認識してくれる?そんなの。出来ないって諦めてる。きっとお互い様だと言い聞かせてる。早く脳だと言ってくれ。心なんて曖昧なもののせいにしないでくれ。正常におかしいんだ。脳が、神経が、あるいは遺伝子が、ちゃんとおかしいって、わからなくていいから、心だと思わないでくれ。
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