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あの世を体感する女性のための儀式 江戸時代、金沢から立山へ出かけた女性がいた。その理由(ワケ)は? 

 全ての罪を懺悔し、汚れを払った女人は、白経帷子の死装束を着け、白布を捧げて天ノ浮橋を渡る。生前に行なった罪により死後地獄に落ちると信じられていた。

 この布橋は、あの世とこの世を渡す白道、生と死の境界である。諸国からの参詣女性が白装束で目隠しをして、閻魔堂(幽界)に入り、十王の審判を受ける。

閻魔堂

 この不安から逃れるため男性の間では、立山禅定登拝が行われていた、一方、立山は女人禁制であるとされ、女性の登山を許さなかった。

 女性は必ず地獄に堕ち、極楽往生はできないと説かれていたが、女性に生まれた身の上を堕地獄から救うことはできないだろうか、女人救済の文化が生成され、考えだされた法会が布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)。

 白装束に身を包んだ女性の儀式が立山で最近まで途絶えていたが、平成8年9月29日に文化庁主催「第11回国民文化祭とやま」で復活し、数年おきに開催された。令和4年は5年ぶりに9月25日に開催され、富山県内から31人の女性が参加した。雅楽の音色が響くなか、朱色の布橋には3列の白い布が敷かれ女性たちは極楽往生を願った。

 江戸時代始め、加賀藩前田家の、初代利家の妻まつと玉泉院(長男利長の妻)が布橋灌頂会に出向いている。まつは江戸に人質となっている間、常に家族の状況を心配して書状を送り、指示を出していた。

芍薬(シャクヤク)
シャクヤク

 江戸に滞在中、シャクヤクの花を見て心を癒やしていたと伝わる。金沢の尾山神社では、近年そのシャクヤクを植えて、5月には見頃を迎えていた。6月の初めには「百万石祭り」が3年ぶりに開催されて、多くの人が生きるエネルギーをもらっていた。

 「江戸で大流行の芍薬(シャクヤク)を自分も百株ほど植えており、見せたいくらいだ。自分のは不出来だが、欲しいなら、他所から調達して差し上げる。その植え方は、土を軟らかくして油粕を混ぜる。云々。」
              【芳春院消息写し 村井長次宛 慶長14年12月カ】

 長男利長が高岡で静養しているものの幕府に帰郷を願い出るも許しが出ない中、利長は慶長19年(1614年)5月に亡くなった。その後まつは帰郷が許され、同じ年の慶長19年(1614年)8月、玉泉院と金沢から立山に向かっている。

【推理1】

 加賀藩史料(第2編)によると、「八月。芳春院・玉泉院二夫人越中中新川郡立山中宮寺に参詣す。」とあり、利家と子供(利長)の菩提を供養するためと言われている。いつの世も人は祈り続ける。

(参考)慶長19年8月ごろの「芳春院まつ」の心境
普請の御手伝(越後高田城の築城)が一番にあたり、手違いが多く、面倒なことで言いようもなく困ったものです。運が悪く一番に当たり苦々しいことです。とまつの消息に見える。また、キリシタンの処罰のことが手紙に書き記すことができないほど、あきれた結果に悲嘆している。亡き夫の前田利家の遺言でもあった高山右近の国外追放にも衝撃を受けている。自身も5年ほど前から奥歯からの出血がひどく、脈が一時途切れて医者も心配していた。 

【推理2】
 息子(利長)の妻(玉泉院)も伴い、女性たちによるカモフラージュされた軍事行動の役割もあった可能性があるかもしれない。
①布橋灌頂会が行なわれる芦峅寺周辺は、佐々成政が以前から拠点と考えていた。
②慶長19年8月から10月という時期は、大阪冬の陣への足音が聞こえてきた。

果たして。芳春院まつの心境はいかに。

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