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クリスマスプレゼント

 久しぶりにね、サンタクロースをしたよ。
日本で小児病院に勤めていた頃、クリスマスにサンタクロースを上司にさせられたのは実に20年以上前かもしれない。

 あの頃よりは年齢や体型は十分、サンタに近づいたが、こころは無邪気にサンタを思う子どもたちから遠ざかっているせいか、サンタをしてほしいなんていわれて、手術の合間時間を縫ってサンタの格好なんてちょっと勘弁してくれよ!と。本気でウンザリしていた。
 そういう時に限って、手術は滞りなく進み、キレイに合間時間が取れて、晴れて20年ぶりにサンタクロースになってしまった。

 日本で小児外科医をしていた頃、外科手術が必要で外科病院に同時に入院中の小児がんの子どもはせいぜい5名程度で、その他は肝臓や腎臓、腸、気管の病気、奇形など様々な疾患の子どもたちで、死と隣り合わせのぎりぎりの状況である子はそんなには多くはなかった。

 ところが、カンボジアでは外科手術が必要な死と隣り合わせな小児がんの子どもだけで常時40人近く入院していて、サンタとしてベットサイドを回ってもなかなか終わらなかった。


 寄付者たちからもらったクリスマスプレゼントを紙袋に入れて各子どもたちにクリスマスプレゼントを渡してその家族と一緒に写真を撮って次々と動いていく。
 同行する何人ものスタッフの一人がスピーカーからクリスマスソングを大きな音量で流し、年長の看護スタッフが大きな声で小躍りしながらメリー・クリスマスと叫んでいく。
 周りのスタッフのゴリ押しで無理やりサンタクロースにされ不機嫌な私はその光景を白けた気分で受け止め、流されるように子どもたちを回る。


 わずか生後数ヶ月から14歳までの子どもたち。一人また一人と子どもたちを回るうちに私のこころは何だかやり切れない思いに占拠されはじめた。子どもたちの周りで明るく振る舞って見せる大人たちの光景はいつしか音や色を失い、健気にも生きるためにボロボロになりながら頑張っているこの子たちの姿や笑顔や家族の表情が1種の波動のように私の中の何かと共鳴しはじめ、何かはじめてお産で人間の誕生の瞬間に立ち会えたときのように、多分亡くなると思っていた老人が生を再び取り戻し笑顔と涙で私を拝んでくれた若き日のように、私の中で再び、何か感じるものがあったんだ。
 それは遠い昔に置き忘れてきていたような感覚で、とても大切なものだったような感覚。

 何のために医師になり、何をしたかったのか、いや、何をしなければならないのか、それを確認できた、そんな気がした。


 もう助からない子どもがいて、呼吸困難でこの病院を訪れた胸の中にできた肉腫で、抗がん剤によって一時は快復して、元気に毎日過ごしていたがやがて抗がん剤が効かなくなり、腫瘍は急激にどんどん大きくなり、肺を圧迫し、心臓を圧迫し、再び呼吸不全に陥り、人工呼吸器を付けることになる。いくつかの理由から手術は困難と判断されもはや打つ手がなくなって、せめてもう一度、一時的にでも健康になればと人工呼吸器下に抗がん剤を再開し、わずかに症状が改善していた頃に、ちょうどクリスマス。
 私は人工呼吸器に繋がれて意識朦朧なこの子の枕元に行きなんとなく開かれた目の前にクリスマスプレゼントの小さな木琴を差しだす。
 付き添う母親が子どもに何かしら声をかけてそのことを伝えていた。
 子どもの目と顔がなんとなくうなずいているように私には見えて胸が一杯になってしまう。
 この子がこの木琴を引くことはないだろうと、そんな気がして少し悲しい気持ちにもなる。



 あぁ、こんな子どもが世界にはどれ程、存在しているのだろうか?と思うとやるせない気持ちになった。

 全ての子どもたちを周り終わって、こんな子どもを一人でも減らすことを私はやらねばならぬのだと強く決意する。
 いやいややったサンタクロースだったけど、終わってみれば本当に私にとってはかけがえのない経験になっていた。  

 


  数日後、スタッフが私のところに来て短いビデオクリップを見せてくれた。
 はじめはなんの事がさっぱりわからなかったが、スタッフが「あの子です。あの後、少しだけ元気になった時、クリスマスプレゼントの木琴を弾いていました。」と教えてくれた。
 ただ、弱りきった両手にバチを持ち、モニターの音にかき消された無作為に木琴を叩くその小さな、小さなその音は、サンタクロースが私に特別に用意してくれたプレゼントだったのだろう。
 


 この数日後、彼はまだ息がある内に生まれた村に家族連れられて帰っていった。




 私には死ぬ前にまだまだやらねばならぬことがある。
 それが片付けば、私もそっちに行けると思う。

 





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