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先生と呼ばれていた私が、うつ病になって仕事を辞めるまで

大学を卒業して、中学校の国語の先生になった。
中学生だった頃の私みたいに、学校が好きじゃない子を支えられる人になりたいと思ったからだ。

3月の末、私の赴任先が郵送で伝えられた。
土地勘がないのですぐにググる。
ど田舎僻地校、同じ校舎に小学校が併設されていることは分かった。

1年目、心療内科との出会い

大卒即教員、経験値ゼロの私はいきなり担任になった。
担当は3学年全部の国語と、担任するクラスの道徳、学活、総合だった。
毎日はじめてのことばかりで、ずっと緊張していた。
担任するクラスの子たちとはすぐに打ち解けられて、毎日ぎゃあぎゃあ言いながら過ごしていた(我ながらなかなか騒がしかったクラスだと思う)。
忙しかったけれど、楽しかった。
初任者研修の出張や公開授業もこなしながら、なんとかやっていけてる。

はずだった。

7月の半ば。夏休みまであと少しの日。
いつも通り身支度をしようと思って鏡の前に座ったら、涙が止まらなくなった。
ただごとじゃないと思い、同業者(小学校教員)でもある母に電話した。
「今日は休みなさい。すぐに心療内科に行きなさい。」
母から言われた通りに、涙を堪えながら欠勤の電話をし、今日すぐに見てもらえる心療内科を探した。
幸いなことに1軒、午後から見てくれるところが見つかった。

心療内科ではうつ病一歩手前だと診断され、薬を処方してもらった(愛飲するレクサプロとはこのときからのお付き合いである)。
すぐに診断結果を学校に電話連絡し、そのまま数日休んだ。

久しぶりに学校に行くのはドキドキした。
でも、行ってしまえばなんとかなるものだ。
すぐに夏休みに入ってしまったのもあり、そのまま勤務し続けることができた。

心療内科に定期的に通って薬をもらいながら先生の仕事を続けた。
無事に1年目の終わりを迎え、2年目はこのまま体調を崩さずに仕事を軌道に載せようと思っていた。

2年目、激務

私の運命が変わったのは1年目の3月末。
校長から各人の来年度の担当業務が発表された時だ。

小学校に複式学級ができること。
小学校の先生の負担を減らすために、中学校の先生に特例で辞令を出して小学校の授業を担当してもらうこと。

大きな変化はこの2つ。

そして、私には小4と小6の授業が新たに追加された(ちなみに私は中高の免許しか持っていないが、どういうわけか小学校での兼務も許可されてしまった)。
持ち上がりはしなかったが担任は引き続き担当していたため、1年目の仕事に純粋に小学校の授業が足された格好になった。

ありえない、と思った。
1年目に私が体調を崩しているのを知っていてこの布陣なのかよ、と思った。
仕事を軌道に載せるどころか、もっともっと頑張らなきゃいけなくなってしまった。

新年度の時間割を見て絶望した。
週に30時間コマがあるうち、私の空きコマはたった1時間。たった1時間しかない。
(ちなみに小学校高学年の先生でも数コマ空きがあるし、低学年の先生は児童が早く帰るため5、6時間目は空いていたりする)
私は学校で一番忙しい人になってしまった。

小6の方は担任の先生とTTでやっていたので私はなんの準備もしなくてよかったし、私が初任者研修や研究授業でどうしても忙しいときは担任の先生だけで授業をしてもらうこともあった。

しかし、小4の授業は私がやるしかない。他に人がいないから。
週7コマもある授業、中学校とは全く勝手が違う授業の準備を、中学校の業務と並行して行っていた。

12月、限界を迎えて倒れた。

もうどうしても出勤できなくなり、心療内科の先生にも休職を勧められた。
ずっと前からおそらくうつ病だったのだが、ここではじめて「うつ病」と明記された診断書を貰った。
言われるがままに1か月間の療養休暇を取得し、両親に迎えに来てもらって実家に帰った。

1か月で何とか体調は回復し、年明けから仕事に復帰した。
小4の授業も、小6の授業も、私の担当ではなくなっていた。
ほっとするとともに、「ほら、はじめから小学校だけで何とかなるじゃない」と腹立たしかった。

迎えた年度末。
他の教科の先生は来年度も小学校の授業をするようだったが、私は完全に中学校専任になった。

3年目、アクシデント

昨年度まで担任していた学年の副担任となり、業務量は明らかに減って、これならなんとかやっていけそうだと思った矢先だった。

私の学年の主任兼担任だった先生が病気をされて長期で休むことになってしまった。
とりあえずの担任代理として白羽の矢が立ったのが私だった。

気心の知れた大好きな子どもたちと過ごすのは全然苦ではなかった。担任業務も3年目になるとそこまで戸惑うことはない。
ただ、いつ戻ってくるか分からない先生の穴を埋めるのは大変だった。
このクラスはあくまで私のクラスではない。
元々の担任の先生が出したいカラーを私が上書きしてしまわないように、気を遣っていた。
毎回、療養期間の区切りには今度こそ先生が戻られるんじゃないかと、口には出さないけれど期待していた。その先生からたくさん学びたいことがあった。早くお会いしたかった。早く4月のスタートのときの学年に戻りたかった。

担任代理は、2学期に別の先生が正式に担任になるまで続いた。
副担任ポジションに戻ったものの、主任不在の新しい学年のチームになかなか慣れることができなかった。

9月末。発狂した。
私は、臨床心理士の叔母に電話しながら泣き叫んでいた。いつも優しい叔母が珍しく強い口調で
「あおい、もう仕事辞めよう」
と言った。それは有無を言わせない力強さがあった。
叔母はそのまま私の母に状況を説明し、翌日母から学校に退職の意向を連絡してもらった。
退職の手続きは電話と郵送で行った。

10月の末、引越しのついでに学校に行って子どもたちに最後の挨拶をし、置いてきた荷物を引き取った。

あっけない、悔いの残る最後だった。

今、思うこと

退職してから1年以上が経過した。

今思うと、1年目の心の不調は致し方なかった。
元々メンタルが強い方ではない。
慣れない土地、はじめての仕事。
きっと教員を選んでいなくても、何らかの不調は出たんじゃないかと思う。
ここで踏みとどまれればよかったのに。

運命の分かれ目は2年目だったと思う。
もし、このとき中学校の業務だけできていたら。
もしかしたら持ち堪えられたんじゃないか。
長く教員を続けることは叶わなくても、結婚して仕事を辞めるつもりだった3年目の年度末までは頑張れたんじゃないか。

2年目でエネルギーを削られた私は、3年目の9月までに余力を使い果たしてしまったんだと思う。
実は3年目の7月に1週間療養休暇を取ったのだけれど、復帰する前日になっても仕事ができる気が全くしなかった。はじめての経験だった。でも、翌日、重い体を引きずるように学校に向かった。
そこで無理をしたから(無理せざるを得なかったから)、9月に発狂したのだと思う。

私がうつ病になったのはしょうがなかった。
でも、うつ病が悪化したのは、今も治らなくて苦しんでいるのは、死にたい気持ちに襲われるのは、思わず自傷をしてしまうのは、しょうがないとはどうしても思えない。

年度途中で退職せざるを得なくなったのは、今でも悔しくて悔しくてたまらない。

教員にならなければよかったのか。
赴任先の運が悪かったのか。
私が全部悪いのか。
どこかに回避できる道があったんじゃないのか。

最近、そんなことばかり考えている。

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