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1月(下) 寂しさはグラデーション

2023年1月29日。26時半ごろ。なんだか寂しい夜だった、特に何があった訳でもない。

仕事がちょっと面白くなってきたことや、再会した特別な友人が身に纏う素敵な香りが当時のままだったこと、自分の着ているコートにだけ、やたらタバコの臭いが付きまとっている気がすることなど。全てが何かの暗示のように思えて、そして全てに対して寂しさを覚える。

寂しいと口に出すのある意味とても簡単で、かつ『私は背後に色々と抱えていますよ』って含みを持たせられる。ような気がする。

言葉って便利だよなと、そういうことを考えてしまう自分も嫌になる。虚しくなったのでビールをあおって寝た。

夜道を散歩した時の一枚。


寂しさに限らず、言葉にはグラデーションがある。その複雑さを強引に括って、一緒くたにしてしまうのは雑だし、手抜きだし、誠実さに欠ける。そう分かってはいても、たまにまとめて含み込んだつもりになって、言葉そのまま吐き出したくなる時がある。

こういうのを反知性主義と言ったりするのだろう。堕落していっている。

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高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』を読んだ。

職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。ままならない人間関係を、食べものを通して描く傑作。

【抜粋】あらすじ

あるメーカーの社内が舞台。日々の飯に意味を感じられず、いかに効率よく摂取するかを考える二谷が主人公。カップ麺を餌のように摂取するさまが良い。

主に芦川との食事や、社内のおやつの時間を通じて生まれる客観的に尊いとされるコミュニケーションに対して、心の中で異議申し立てまくる話。性欲と軽蔑心だけで、彼女との関係性を成り立たせているチグハグさも救えなくて面白い。

ある意味で「うまくやっていくことを強制される場」でしか成立しない物語ではあるけど、世の中の多くは結局そうなので、共感できるポイントは誰しもにあるだろう。

押尾さんのラストは過激ではあるけど、この本の根本に流れる閉塞感に対する一つの希望でもあった。

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新しいマグカップを買った。手に持った時の馴染み方が運命的だったので。

ちょっと歪んでいる方がいい

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