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過ちの代償 其の拾弐
四日目
四
ひとまず裕太から壷を預かり受けると、怜はホテルに戻った。あのまま裕太が持っているよりは怜の手元にある方がまだ安全だろうという判断だ。
再び呪詛を封印するための新しい札を用意しなければならない。怜はバッグから和紙と筆を取り出し、高校生らしからぬ達筆な文字で呪文を綴った。
続いて「高橋 裕太」の名を記した人形を作り、裕太の髪を包む。竹下の人形で爪を包み、ともに壷に入れる。この呪符で壷を封印すれば呪詛を封じられるはずだ。
怜は書き上げた札を慎重に壷の口に巻き付けた。
その晩、怜はまたも寝入り際の金縛りに見舞われた。
──……ほぎゃあ、ほんぎゃあ、ほんぎゃあ……
耳を塞ぎたくなるほどの大音声で、赤ん坊の泣き声が響き渡った。固く閉ざした怜の瞼の奥には、まだ生まれたばかりと思しき新生児が視えていた。赤ん坊の身体は、首のみを出して地中に埋められている。その首を目掛けて女が牛刀を振り下ろすと、赤ん坊の首から鮮血が吹き出した。
『…………ッ!』
怜は思わず固く拳を握りしめた。
眼の前で繰り広げられる惨劇から目を逸らしたくとも、視えてしまう。
次に視えたのは御弊を振る女の姿だった。祭文を唱える声が聞こえる。
──……ちりぢん 熄滅 ちりんやそはか ちりぢんそはか ちりちりそはか ちらちらそはか と打って放す……
女が一頻り唱え終えると、いつの間にかその手に握られていた御幣は牛刀に変わっていた。
女は手にした牛刀を自らの腹に向け、暫しの躊躇いを見せた後、勢いを付けて突き立てた。女の服がみるみる血の色に染まっていく。
──……我が身を以て 式と為す……
「オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ!」
怜の真言とともに、女の気配が掻き消えた。
漸く金縛りから解放されると、怜は自らの肩を掻き抱いた。身体の震えが止まらない。
夏だと言うのに全身に冷や汗をかいている。
……あの女は赤ん坊を使って狗神を作り、呪詛を掛けたのか……。そうして自らの霊魂を賭して自分自身を式神と化したのだ。
──なんという執念だろう。
怜の背筋に冷たいものが走った。
彼女の身に何があったのか、その全貌は知る由もない。しかし……並みの呪詛ではない。
不甲斐ないことに、どうやら自分の力では彼女の強い怨念を封じ切るには至らなかったようだ。
──けれど、どうしたものだろう……。
次の一手を怜は考えあぐねていた。
ひとまず気力を維持しなくては……。
とても安眠できるような気分ではないが、今はとにかく眠ろう。
怜は無理やり目を瞑ると布団に潜り込んだ。
五日目
一
翌朝、怜は目を覚ますとすぐに身支度を整え、紙袋に例の壷を入れると裕太のアパートに向かった。外階段を登り、玄関のチャイムを押すとすぐにドアが開いた。
「あ、怜さん、おはようございます。」
「おはようございます。どうですか、昨夜は何か変わったことはありませんでしたか?」
朝の挨拶もそこそこに、怜は裕太の様子を窺った。
「それが、夜寝ていると、女の声が聞こえてきて……何を言ってるのかちょっとよくわからなかったんですが、ちりちりそわか?とか、そんな感じの事をぶつぶつ言っていました。そのあと見知らぬ男の声がして、僕に謝るんです。“自分のせいで、済まない”って。」
見知らぬ男というのは竹下博のことだろう。
裕太もやはり、昨夜は霊障に見舞われていたようだ。
ひとまず女の様子を視てみるか……。
怜は靴を脱ぐと裕太の部屋に足を踏み入れた。
部屋の様子は昨日のままだ。雑然と積み上げられた段ボール。乱雑に掘り返された品々が散らばったままになっているのも昨日と変わらない。
──が。そこにいるはずの場所に女の姿が視えない。
部屋の左隅に置かれたベッドのすぐ脇は出窓になっている。その出窓に、盛り塩とともに酒の注がれたグラスが置いてあるのが見える。そのグラスの色が赤く染まっていた。
「裕太さん、昨夜はお酒を取り替えましたか?」
「…………あっ。」
どうやら悪霊除けの効果が途切れてしまったようだ。それで封印が上手く行かなかったのか、と臍を噛みながら、裕太に事情を説明しなくては、と怜は紙袋から壷を取り出した。
「実は昨日、改めて呪符を作り封印を試みたのですが、……どうも、封じ切れなかったみたいです。」
今までどこか呑気な雰囲気を湛えていた裕太も、流石に少し青ざめて口を閉ざす。
「どうしましょう……。」
「ひとまず向こうの出方を窺うしか──」
そう言いかけた時、生暖かいぬるりとした感触が怜の指に伝わった。視線を向けると、壷の口から赤黒い液体が滴り落ちている。
「!?」
驚いたはずみか、それとも血糊で指が滑ったためか、怜が取り落とした壷は床に落ちて粉々に砕け散った。その場に血溜まりができる。
──まずい。明らかに女の力が増している。
しかしその姿が見当たらない。いったいどこに……。
「ひぃっ……。」
裕太が息を飲む声がした。
血溜まりの中で何かが蠢いている。
猫ほどの大きさに見える“それ”は、手足をもぞもぞとくねらせながら、少しずつ、ほんの少しずつ、こちらに近付いてくる。“それ”の頭部と思しきものが、血溜まりの中に転がっているのが視えた。
裕太はその場にへたり込んでいる。
怜は“それ”から視線を外せぬまま後退った。二、三歩下がったところでずるり、と踵で何かを踏んだ。足元に視線を移すと、 処々赤く斑に汚れた紐のようなものが目に入る──これは……臍の緒だ。
──……ふふっ……
背後から、こみ上げる笑いを噛み殺すかのような微かな声が聞こえた。
怜はゆっくりと振り返った。
そこに、女が立っていた。鋭く刺すようにこちらを睨むその目つきとは裏腹に、口元には微かな笑みを浮かべている。右手には牛刀が握られている。女が牛刀を振り上げると同時に、怜は印を結んだ。
「オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ!!」
怜の声とともに女の気配が霧散した。
床の血溜まりもいつの間にか消えている。
「裕太さん、ひとまずここを出ましょう!急いで!」
「……は、はい。」
裕太の手を引き立ち上がらせ、大急ぎで靴を履くと、怜は裕太を連れて玄関から外に走り出た。
二
一時的に追い払ったものの、あの女が祓われた訳ではない事は明白だ。封印の壷は割れてしまった。壷の中身が形代に過ぎない事を彼女は知っているのだ。いったいどうすればあの女の呪詛を防げるというのか?考えが纏まらない。
──そうだ、あの神社なら。
遊郭で働く女性の霊を慰霊するあの神社ならば、多少なりとも彼女の負の念を和らげられるのではないか。殆ど神頼みだが、他に手立ても思い浮かばない。
「裕太さん、私に着いてきて下さい!」
そう言うと、怜は稲荷神社に向かって走り出した。神社の鳥居をくぐると、怜はその場に座り込み、暫しの間呼吸を整えた。すぐ後ろで裕太も荒い息を吐いている。
幸い神社には二人の他には誰の姿もない。
「どうして……、何の恨みがあって!」
裕太が混乱している。あんな体験をすれば無理もない。
「わたしの力でどうにかできるかは分かりませんが、彼女と話してみます。」
そう言うと、怜は目を瞑り意識を額の前に集中させた。
──あなたの声を聞かせて下さい。
間もなく女の姿が浮かび上がった。
女の纏う霊気からは、先程見せた強い殺気が薄らいでいる。
女は神社の空気を浴びるように周囲を見渡すと、どことなく懐かしそうな表情を見せた。
そのまま暫くそうしていたが、徐々にその面持ちが陰り始めた。
──……ウソツキ。ウソツキ。ウソツキ。タケシタサンノウソツキ……!
女は怒りとも哀しみともつかない声で呟いた。
──節子さん。
怜の隣から、裕太ではない男性の声がした。竹下だった。裕太の元を離れ、女──節子──の方に歩み寄る。
──覚えていますか。初めて会った日のことを。
竹下の姿を認めると、節子は暫しの間無言でその顔を見つめていた。やがて、節子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。止めどなく流れ出る涙を拭いもせず、そのまま嗚咽を上げて泣き始めた。
その姿を見ると、怜は居た堪れない気持ちになった。ほとんど悪霊と化してしまった彼女の心に初めて触れたような気がしたのだ。
──あの時、私は確かにあなたと恋に落ちていたのです。ただ、私には以前から結婚を約束していた女性が居た。そのことをあなたに隠したまま、あなたとの約束をなかった事にして、あなたを傷付けてしまった。私は卑怯だった。あなたに申し訳ない事をしたと心から思っています。
節子は何も答えず声を上げて泣き続けている。
──私があなたとともに逝くのは構わない。ただ、裕太は関係ない。どうか裕太を連れて行くのだけは許してください。
節子はそのまましばらく肩を震わせて泣き続けていたが、やがてしゃくり上げる呼吸を徐々に落ち着けると、ふぅー、と深い溜め息をついた。おもむろに顔を上げ、竹下の顔を見つめる。そうして両手を伸ばすと、竹下の手を取った。
──……もう二度と、わたしから離れていかないでください……。
──……もえん不動王 火炎不動王 波切不動王 大山不動王 吟加羅不動王 吉祥妙不動王……
節子は祭文を唱え初めた。あれは恐らく伊邪那美流の呪詛返しの祭文だ。呪詛を掛けた本人が呪詛返しをすれば、本人に向かって返りの風が吹くことになる。
彼女は竹下と心中するつもりなのだと、怜は思った。
──……逆しに行ふぞ 逆しに行ひ下せば 向こふわ 血花にさかすぞ みぢんと 破れや 妙婆訶……
隣を見ると、何故か裕太が泣いている。
──……四方さんざら みぢんと乱れや 妙婆訶 向ふわ知るまい こちらわ 知り取る 向ふわ 青血 黒血 赤血 真血を吐け 血を吐け あわを吹け……
節子と竹下の口元から溢れ出た血が筋となって滴り落ちる。
──……打ち式 返し式 まかだんごく 計反国と 七ツの ぢごくへ 打ちおとす 唵あびらうんけんそばか
節子が祭文を唱え終えた時、二人の足元に漆黒の闇が口を開いた。節子と竹下は互いに手を取り合いながら、地の底へと続くかと思われるその闇の中に飲みこまれていった。
怜は、そして裕太も、呆然とその場に立ち尽くし、二人が闇に消えていく様子をただ見守るしかなかった。
つづく
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