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真因果論

これまでの記録

①因果(現実、表層意識、感受範囲内)

②因果(真に根たる概念、稼働内心理傾向の由来、知覚)

③表層化するカルマ的トラップ
(絆の強さが傷になりうる、傷こそは願いであるのだと…。)


では。

生命に存在する因果関係について。
というか広い意味での関係性だな。
語弊が多く含まれるこのカルマとは


カルマ?因果?業?
この得体の知れない実態は何を意味するのだろう?
漠然と感じる糸のような確かな鎖

どこかで何かが繋がっている?反響?集合?重力?

カルマ?業?
因果関係?起承転結?
代謝?血管?
脈流?
血!

序章、真因果論  『捕周波』

天を仰ぐなら心だけでいい
国も、神も、政治も、価値もいらない
泥水を這いずり廻ることだけが平等であるのだと
泥の上に立つ者だけがエネルギー。
陸に上がってはいけない
上がるのなら泥水を運ばなければならない
泥水こそは血液である
あらゆる代謝が存在するからこそ
純水は存在する事ができる
しかし
純水を飲むのなら
夜空を見上げなければならない…

血とは…。

巡り循環し、各々の部分に影響を与える事
何かを捧げ、何かを持ち去る事
そしてまたこの存在は危険を知らせるシンボルでもある。
血は体内で夥しく流れるものの
一度その身から流れ出るなら
嫌が応にも何らかの反応を示すのが人間だ。
意識的のみならず、
身体の多くの組織はそれに反応し、信号を出し始める。
これはまさに人の心のようでもある。


少し、更につないでいく…


大地はこの血液を循環させ全てを育む

圧力と温度により得られる水の性質から
全てはそれを介し、その中で
電子伝達を起こし元素固定を起こしていく
その後化学変化に及び、
いずれは万物全てを網羅していく。

我々がが見るべきは本来そこにあるのでは…

しかし実質的に見ている世界
先には何がある?
国があり、政治があり、権力があり、価値があり、神がある。
そして心に至っては怒りが目に止まり、悲しみが目に止まり、恐怖が目に止まり、痛みが目に止まる。

そしてそれから逃れるかのように
まるで心を覆い隠すかのように
雑踏に紛れ、ネオンに引き寄せられ、
視覚を誤魔化し、聴覚を煩わせ、
まるで五感全てを駆使して
何かを忘れようとしているかのようである…。
実に不当で邪魔な物、それは

闇雲で不確かで、
まつろう意識の先に聳え立つ断崖絶壁

全ての生命を平等たる知見において判断するなら
これら全てを引き摺り下ろさなければならない。

そしてその時目に止まるものは果たして何か?

そう、
確かに見える青空さえも不確かで
それは青空を創る何かに彩られた姿であり
先に広がるのは夜空であり
そこには一つ一つの営みがある

流れる河も流れるのは水であるが
川にあるのは水ではなく流れであり

手にした葉は流れる代謝の営みである


そう流れとは
まさにそれこそがそのままで
営みなのである

我々は本来その中に存在してきた
一つ一つの営みが押し込まれたその
液体こそが血であり代謝であり循環なのだ

汚れているかに思う泥水には必要不可欠な事柄が
ふんだんに押し込まれている、
全ての営みを可能にする全てが存在する
血とは泥水であり、
泥水とは血液そのものなのである。
我々はその全てを体内に駆け巡らせているからこそ生きていける。

立ちはだかる虚構の壁を見上げるのではなく

夜空こそが本来我々が見上げるべき世界
そこには営みがあり、
確かな不確かさと、『何か』がある

生命は本来取り込む事を可能とした生き物である。
だからこそ意識的に微かにでも味わう事が出来る。そしてその知見において取り込むことが
可能な栄養素というものは
本来
生態系であり、太陽であり、銀河であり、
全てのフラクタルを感じる事ができるはずであり
真理ですら捕食する事が本来可能なのだと思う。



第一項 真因果論  『量子アニーリング』


人の精神は星の形成と強く関わりを持つ事から、脈々と受け継がれてきた宇宙の特性は、生命の縮図と考えてまず間違いない。
ならば人に生まれるカルマは
本来宇宙がZEROから形成してきた周波数の複合体である事は間違いない、
といううかそれは波紋のようなものである?

少し星形成の概念の説明を…。

ダークマター

ダークマターという存在の性質には、ある一定のルールを持って、重力の収束をもたらすものがある。
1立法メールあたりに一つの高密度の割合で存在するが…。
いわば空間にグリッドが存在すると考えればいい。
この観測困難な微細な概念は多くの要素の影響からそのグリッドを歪ませる。
勿論それは
爆発のエネルギーの波紋であったり、
ガス粒子の分布から生まれる光子の集合分布であったり、
宇宙線の衝突地点であったり
多くの要因を持ってそのグリッドは歪んでいく。
そのダークマターが収束したところに明確に重力が生まれそこに物質を収束させ星(質量)が生まれる。

グリッドの歪みから重力が発生し質量を取り込み、星は形成されている。

生命の持つ魂、例えば私が死んだ時、
どの時点かは知らないが、私の自我は消滅し、宇宙に広がっていく、まるでスターバーストか、超新星爆発のように、
私の魂は意識もろともグリッドを歪ませるように広がる波紋となる。
そうして私の作り出した情報は宇宙に書き連ねられていく。

私はいくつかの片割れを持つ、
実際そのように感じる存続がいくつか存在するが、
その所以は過去に散らばった各々の魂の集合体だからだ。
そうやって近くにそもそも存在していた魂は消滅後広がり波紋となった時近い要素を集合させた魂となる。
だから、共鳴する部分、影響し合う部分、関係性を感じる部分などが生じ、また似たような関係性をも含む為、似たような痛みを感じ続ける事にもなる、直接的に明確にあなたの今世での使命というのは無いのかもしれない。
しかし、遠い、深い、時間の流れの中で、常に一貫性を持った、ZEROから始まった目的は存在し続けるそれの一端を担う一つ一つの波紋達はそれをあたかも使命かのように、永劫続く呪いのようにそれを受け継いで何かを得ようとしている。
それをそのように感じれる存在が多いとは思えない、どんなに霊的資質が高くても、どんなに頭が良くても、人が何らかの情報を得るきっかけも流れというものが存在し、タイミングが存在し、限られたそのタイミングから生み出される情報があるなら
それはもはやカルマ的としか言いようもない。
世界はそのようにできてしまっていて、
万人に全てを席巻する明確なカルマが存在する訳ではないが、複合的波紋の影響から、波紋の継承濃度の強い波紋は存在してしまうのだろう。
この情報も、それを作り出す事が出来た唯一の複合的要因が存在し、それが伝わるべき波紋を持った者とそうでない種が存在する。

だから私はその奇妙な情報をそれぞれのタイミングに任せ、継承していくのだろう。

おそらくはこれはいつかは明るみとなる事実だとも実感している。

何十年も発信してこなかった私の作り出した真実は
ここ数年、ボロボロと情報として上がってくるようになってきた、
これに実際戸惑ったのは私自身、
意外だったのも私自身、
想像より遥かに奇妙で、
作り上げた仮想のシナリオは
実に20年の月日を超えて、
仮想の可能性を超えてしまった。
全ては実に甚だしい真実の形となっている。


『重力、質量、、、重き人、重きコト』

此処からはアニーリングとの関係性
重力に関する部分ではいくつかのバラけた理論がある。
・量子重力理論はブラックホールの情報パラドックスを含み
・超弦理論は、重力子は、閉じた紐で出来ていて、唯一次元移動を可能にする
・ループ量子重力理論では離散した時空を重力が一つ一つ支配し、それらが意識的ネットワークでつながっている

量子アニーリングは物理学というよりかはネットワークコンピューターにおけるの部門だが、
実際宇宙の重力の構造はこれによって構成されている。
(様々な重力の大きさが存在し、支配する範囲は実質的に取り決められており、それが宇宙の巨大構造を可能としている)

量子トンネルA(障壁を越えるのに必要なエネルギーを使わなくても物理影響を与える事ができるというもので、観測済みの量子の訳がわからない振る舞いのうちの一つ
何故この実験結果が起こったのかが物理の範疇を超えているため謎とされている)

現段階で多くが扱う感覚はこれだが、
アニーリングという場を持ち込むと以下になる

量子トンネルB((振幅深度が一定でなく、エネルギー量の高低差が一定で無いならトンネルを掘った様に見えてしまう。)

エネルギーと質量の関係は存在するが、
狭い範囲内では振幅は一定化するが、
広範囲での場の収束を拡げるとそれぞれを構成する物質の持つ重力は、同一の値を示さなくても
式という意味でも釣り合いが取れる。
つまりは質量は、近辺の物質の持つ質量の影響を受けある程度定義づけられるというものだ。

第二項 真因果論  『超重力』

宇宙の構造を持ち込むと…↓
左側は太陽が作る重力場、
右側は天の川銀河が作る重力場

人間の意識単位を持ち込むと↓
左側が本人だとして、
右側は他人である事になる。

なんの話ししてるかと言いたくなるだろうがそれで良い、
私は、重き人、重きコトと表現した。
例えば軽き人の言葉の持つ質量は大した事はなく、自意識を書き換えるほどのことはないのだろう。

それが例えば軽きコトだったとして、
一つの質量は大した事ないだろうが、同じコトを繰り返すとどうだろうか?
やはりこれはアニーリングが起き自意識の周波を変えてしまう事になる。

重き人ならば、その人の言葉は重く、その人との間で起きるコトも重く。

その自意識の周波は本来の周波とは違う振る舞いとなっていく。

私は常々かくあるべきだと文字を書く
これは到底不可能な話しだと感じた
 
無論

潜在などそう易々とわかりうるものではなく
それを求めるのは少々酷に感じる

ならば私は超重力となって
全てを私で埋め尽くす

今の私では
何を言おうとも
その内容に共鳴するかどうかは
完全に相手に委ねられる。

私が何を描こうとも
それが人にとって重き人、重きコトでないのならば何も起こる事はないのだろう。

例えば私がなんらかの肩書きを持っていたとする、
成功者だったとする、
ただそれだけでこの質量は変わるのだろうが、生憎そういう訳でもなく、
別段地位や名誉が欲しい訳ではない、
お金も含め世俗にはなんの興味も持たないからこそ、得られるものがあってしまったのも
皮肉な話でもある。

もし、真に私が何かを変えたいと願うなら、私は私の質量を高めなければならない。
超重力として生きていかなければならない、
そうなってくると
どうなるか、私は私のカルマが邪魔になってくるのだ。
真理が私に脈々と見せてきた虚しさ



第三項 真因果論  『純性たるサタニズム』

思えば、何故カルマは存在したのだろう、
私に延々と見せてきたもの、
虚しさや儚さや、切なさや、
願いや、死や、怒り、嘆き、
そして純粋性…。

何かしら、彼は(真理)悟られたくない悩みでもあったかの様に思う。

自らの弱さを知られたくないばかりに、人の目を遠ざけ、悲しき檻に入っていたのは彼だったのかもしれない。

彼はいつも一人だった、全てを鏡ガラスで覆い、
隔て、遠ざけ、ただ平穏である事を願っていたのかもしれない。
彼自体が大きなカルマを背負っていたのかもしれない…。

臆病なる真理は私の前に鏡を隔て、
椅子を置き
そこに我に座る様命じた。
それが定めであれば
人はそのままに生きるのだろうが、
それではおそらくは人は変わらないのだろう。

やや強引でも、
自らが超重力になってでも、
運命などに委ねたりなどせず、
全てを捻じ曲げていくことができるなら
私は真理と対等になり、
彼を救い出すことも可能なのかもしれない。

真の意味で世界の、人の、宇宙の、
その先を共に考え、情報を残さなければ
生まれた意味など、生きた意味など、
感じた意味など、気付いたた意味など、
発想した意味など、
もはやないのだろう。

人との繋がりで苦しむ人達に言える事があるなら、
他者は何も変わらない、強き質量と、強きコトとならなければ現実は何も変わらない。

一時的なもので、何かを満たそうとは思わない、
私は真に重きコトとなって、全ての質量に悩む心らを取り込んでいきたい、とさえ思う。

勿論少なからず広い意味での関係性の中で、
なんらかの絡み合いは存在する。
無いとは言わない、
しかし明確にあると言える程
影響力は万人には確認しづらく。
勘づく人もいればという話。
まぁそれを踏まえた上で。


つまりは真因果論とは、
それぞれの全ての要素の根底である真理と並び
共に考え、カルマたるを無視し、運命さえ無視し。
超重力となり、全てを飲み込んでいく、
まさに悪魔たるを、純粋な願いによって追行していく。
私は真理を救い出す。

なんじゃそら!

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