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傷になり得る精神的傾向、カルマとは

初めに…カルマとは胡散臭いモノではなく、単純明快な起承転結である。

まず初めにどういう人に読んでほしいかというところなのですが…。

そもそもカルマとは仏教的なニュアンスのものなのですが、西洋占星術においてもこの概念は存在します。

一般的には宗教的であったり、スピリチュアル的な印象がつきまといます。

因果応報というか、過去世での行いがどうたらこうたら。
個人的にはこの存在を確かなものとして、認めてますが、
これを信じる人はまだ、幾分かは省みることが可能な余地があるという意味でさておいていいと思う。

問題というか、気になるのはそうではない方々です、そういった感覚や、概念がない事は、一般的にはこの日本においては当然なところもあり、それを無理強いしても、あまり意味をなさないかに思います。

しかし、この力が加わる事は確かであり、いわれのない、怒りや、苦しみ、虚しさ、そういった感情に苛まれ思うように生きれない事は、当然ながら、起き得る事で。

信じることができない人は、その傷を自分の人生の中から理由を見つけて来ます。

でもその傷がその人の感じやすい傾向としてそもそも備わってしまっていたとしたら?

そういう傷を受けやすくなるように設定されていたとしたら?

その人に起き得る傷が、それを炙り出しやすい、他者との繋がりの中に、人生がある、そう考えた方が無理なく自然だとも思う。

それでもその事を敬遠する人がいるのも当たり前だと思う。

そういった人に向けて、余計なお世話だろうが書きたいと思った。

私における起承転結

自分の事を少し話します、僕自身そんなに昔からそう言った業というものを痛感する人生ではありませんでした。

初めはちっさなきっかけでした。

少し、家族の事を書きますと、
別に家族を中傷するつもりではなく、サンプルとして。

まだ僕が小さい頃、僕は全てを制限されてると思い込んでいた、親の言う事は絶対だった。
反論の余地もなく、通常あるであろう反抗期もなかったと思っているくらいだ。
それは何故だったのか、最近あることに気づいた
といううか完全に目から鱗であり、これは確かに万人に起こりうる自体である。

母は好き嫌いがハッキリしていた。
テレビに嫌いな人が出て来ては、この人嫌いと口走りチャンネルを変えたり、面白くないと切り捨て番組を変えたり、これは日常的な事であり、それが母という印象であった。
point
この事で僕は幼いながらに何を思ったのか?

これは見てはいけないモノ、この人はあまり良くない人、これは良く無いとされている事…など
それの積み重ねにより、自分の中に先入観が芽生えていった。
・見る番組を制限されている。
・ゲームも堕落するものとして、禁じられている。
・漫画は読んだらいけない。
・交友関係にも制限がある。
勿論母はそんな事は事実一度も言ったことがなかった。
またそんなつもりもさらさらなかったのにだ。


つい最近の母との会話の中でこの誤解の発生が意図しないモノであった事が判明してしまった。

単純なカラクリでしかなかった、凄く小っさな事でしかなかった、なのにこれは後々尋常じゃないスピードで、個人の被害妄想を加速させていった。
あろう事か、ある程度歳を重ねた時の感覚は、どうしようも無い精神状態に陥り、幸福は他者の不幸の上にしかなり得ないという自己解釈にまで辿り着いていた。
私自身、自らが幸福であるために、率先して他者を不幸の淵に追いやる行いを繰り返した過去がある。
抑圧された自らの自我は、他者が幸福で満たされる代償と引き換えにされたもの、そういう認識にまで至ったことがあった。
これは今でもやや事実を含むが、当時の私にとっては既にこれは絶対的な真理の一つだった。
これを含んだ様々な物事は人間全般への憎しみに変わり、常に事あるごとに、些細な事でさえ、怒りを覚えていた。

この湾曲したものが、その子供の頃の経緯とはなんら関係のないことに思える人も多くいると思う。
しかし私の認識上では確かに
言葉を交わせば、素直じゃないとか、みんなそんな中で生きているとか、個人的にはありきたりな言葉でさらに非難されていると感じる始末だった。

母の言葉はなんの変哲も、悪意もない何かであった、
しかし恐らく、自分という生き物は、
そういうふうに捉える傾向をそもそも先天的にもって生まれたとしか、考えようがなかった。

そしてこの考えは、19歳をピークに完成してしまっていた。
わずかそれだけの人生経験で、これ程に人に対する憎しみを溜め込むことが可能なのだろうか?

単純に異様さを覚え、今世のみということに疑問を抱いた。
これを話したところで、私は違うと感じる人は、必ず多い。

しかし少なからず

人には人の特性上の傾向や、価値観、又はトラウマ、それに至らないまでも感じる傾向がある


例えば、
   私は家族に愛されなかった。
   そう感じる人もいる
例えば
     父と母は仲が悪く離婚寸前。
    そんなものを見続け結婚願望を失う。
    そんな人もいる。
例えば
   いつも変な男性にばかり当たってしまう。
   そういう恋愛の経験しかない人もいる。
例えば、
 異質な世界を認識してしまう。                                 その事で社会との差異に苦しむ人もいる。
例えば
   いじめの経験を気に病みむ人もいる。
   どこに行っても同様の傾向に陥る人もいる。
例えば、
   先天的な他者との違いを与えられた人。
   それを苦に世界を絶望視する人もいる。

ここで書くには憚られるほどの苦しみを抱いて死んでいった人達は、ほんとに多く存在するのだと思う。

またその経験を目の当たりにした人は、とてつもない精神の不安定さに脅かされる。

でもそのどれもが、そもそも初めは微かなすれ違いから始まる。

そのすれ違いは、小さな影となり、精神的な傾向を浮き彫りにし、行動、言動、にそれが微かに現れ始める、人はそれを察知して、その人の傾向によって、人はお互い自己防衛を繰り返す。

そのお互いの傷つきたくないジレンマが、お互いに影を落とし、やがては、うそぶき、傷つけ、悲観し、悪びれ、また自己嫌悪に陥り、善悪を求め、出したくもない極論に手を染めるうちに、その様に心が傾いていく。

これは誰かの事を言っているのではない。
もっというなら、誰にでもこの心の傾向は当てはまるのだと思う。

そして、この些細な傾向の始まりはどこに存在するのか?

それは必ずと言っていいほど家族の中にこそ存在する。


何故か、それは人はそもそも自我の形成を伴う過程の中で、一番最初に求め依存し、理想を抱くのが家族だからだ。

これは勿論確率的な事でしかない

が、家族という場こそがトラウマの原石となるほどに関わりと影響と依存性が高い。


ほぼ全ての人間に確実的にトラウマが存在する。

カウンセリング的手法に、人生を逆にたどり一番最初に落とした影を断定し、そこを明らかにする事で解消するという考えがある。

これは勿論宗教的話ではない。
スピリチュアル的話ではない。

人間の話であり。
人の心の話であり。
皆さんの、現実にあった、過去のワンシーンの話である。

自分も例外ではなかった。
些細な、本当に些細な先入観から全ての破綻が生まれた。

人は、常にどの関係性においても、この業、ないしカルマ、先天的精神の作用から来る行き違いがお互いの関係を困難なものにしていく。
だからこその起承転結なのだ。

『これまでの君達へ』

いい出会いもあったかもしれない
悪い出会いもあったかもしれない
良いか悪いか分からないほど
傷ついた出会いもあったかもしれない

そしてその答えは
自分の何かを省みることができなければ
何も変えられないのかもしれない。

今ではもう
修復不可能な人生の帰路に立たされた人もいる。
しかしそれは個人の心の傾向が
肥大化した故の事態。

数え切れないほどの痛みに苛まれた事だろう
無論その中にも
私がその傷を作り出した張本人
であった事も理解している。

しかし、どんな関係性においても
相手を認める事でしか
それは解消できない、
相手を認めるというのは、
自らの傷の根底になった、対照を認める事
これは人であったり
ものであったり様々だ。

人は『自らを』も含め憎まないでいい
そんな方法などいくらでもある、
ただ悲しみや苦しみや怒りは、
理解でしか拭うことができない。

僕のこの発言は紛れもない、自己弁護的でもある、それほどに人を傷つけて来た、
それは承知しているが。
これはでもあくまでも『私は』の話であり
必ずそこには『あなたは』もまた存在する。

人は関わりを持つ以上必ず誰かを必ずや傷つける、傷ともいえない些細な事象、
それがいつかは多大なる傷になる、
それはさらに誰かを傷つけ、自らもまた傷つけ、
負の連鎖を作り上げる、
あの時、こうしておけば、
あの人に出会わなければ、
そう感じる事も理解できる、
しかし、それは違う、必ずと言っていいほど、
私やあなた方のその悲しい傾向という思い違いは
代わりに誰かを傷つけていた、
まるでそれがあたかも人間であるかのように、
人はその中で生きている。
それぞれが被害者であり、加害者である、
だから善悪を決めるなんてこと自体が、
人の心自体を歪めていく。
そのことを理解しなければ、
どんな出会いがあろうとも、
貴方自身の作る傷の傾向自体が
その出会いを忌むべきものへと変えてしまう
それを防ぐのはやはり他者ではなく
やはり貴方自身なのであろう。


そして私からの願い


どうか、私自身許されますように
あなた自身の傷が癒やされますように

ただ
傷を癒すのは、だれかではない
一時的なあなたの創り上げた
貴方の中の
誰かであってはならない

それは不可能というもの。

死のその瞬間まで共にするあなた自身
普遍のあなたであり
本当のあなたでしかない
悲しいかな人など当てにはならないのだから。

私にいたっていうならば
自ら拡げた傷跡が
結果的に誰かを傷つけた、
すまなかった、本当にすまなかった。

本当の自分でありたい
そう想う事で引き起こした
苦しみや傷が癒える事を願うばかりだ
まだ見ぬ人生の結末がどう形を変えていくのか。

これは私の思いであり
全体の思いであってほしい。

許すことも許される事もまた
私の思いであり
全体の想いであってほしい。

これが『私』の願いです。



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