傷になり得る精神的傾向、カルマとは
初めに…カルマとは胡散臭いモノではなく、単純明快な起承転結である。
まず初めにどういう人に読んでほしいかというところなのですが…。
そもそもカルマとは仏教的なニュアンスのものなのですが、西洋占星術においてもこの概念は存在します。
一般的には宗教的であったり、スピリチュアル的な印象がつきまといます。
因果応報というか、過去世での行いがどうたらこうたら。
個人的にはこの存在を確かなものとして、認めてますが、
これを信じる人はまだ、幾分かは省みることが可能な余地があるという意味でさておいていいと思う。
問題というか、気になるのはそうではない方々です、そういった感覚や、概念がない事は、一般的にはこの日本においては当然なところもあり、それを無理強いしても、あまり意味をなさないかに思います。
しかし、この力が加わる事は確かであり、いわれのない、怒りや、苦しみ、虚しさ、そういった感情に苛まれ思うように生きれない事は、当然ながら、起き得る事で。
信じることができない人は、その傷を自分の人生の中から理由を見つけて来ます。
でもその傷がその人の感じやすい傾向としてそもそも備わってしまっていたとしたら?
そういう傷を受けやすくなるように設定されていたとしたら?
その人に起き得る傷が、それを炙り出しやすい、他者との繋がりの中に、人生がある、そう考えた方が無理なく自然だとも思う。
それでもその事を敬遠する人がいるのも当たり前だと思う。
そういった人に向けて、余計なお世話だろうが書きたいと思った。
私における起承転結
自分の事を少し話します、僕自身そんなに昔からそう言った業というものを痛感する人生ではありませんでした。
初めはちっさなきっかけでした。
少し、家族の事を書きますと、
別に家族を中傷するつもりではなく、サンプルとして。
まだ僕が小さい頃、僕は全てを制限されてると思い込んでいた、親の言う事は絶対だった。
反論の余地もなく、通常あるであろう反抗期もなかったと思っているくらいだ。
それは何故だったのか、最近あることに気づいた。
といううか完全に目から鱗であり、これは確かに万人に起こりうる自体である。
この湾曲したものが、その子供の頃の経緯とはなんら関係のないことに思える人も多くいると思う。
しかし私の認識上では確かに
言葉を交わせば、素直じゃないとか、みんなそんな中で生きているとか、個人的にはありきたりな言葉でさらに非難されていると感じる始末だった。
母の言葉はなんの変哲も、悪意もない何かであった、
しかし恐らく、自分という生き物は、
そういうふうに捉える傾向をそもそも先天的にもって生まれたとしか、考えようがなかった。
そしてこの考えは、19歳をピークに完成してしまっていた。
わずかそれだけの人生経験で、これ程に人に対する憎しみを溜め込むことが可能なのだろうか?
単純に異様さを覚え、今世のみということに疑問を抱いた。
これを話したところで、私は違うと感じる人は、必ず多い。
しかし少なからず
人には人の特性上の傾向や、価値観、又はトラウマ、それに至らないまでも感じる傾向がある
例えば、
私は家族に愛されなかった。
そう感じる人もいる
例えば
父と母は仲が悪く離婚寸前。
そんなものを見続け結婚願望を失う。
そんな人もいる。
例えば
いつも変な男性にばかり当たってしまう。
そういう恋愛の経験しかない人もいる。
例えば、
異質な世界を認識してしまう。 その事で社会との差異に苦しむ人もいる。
例えば
いじめの経験を気に病みむ人もいる。
どこに行っても同様の傾向に陥る人もいる。
例えば、
先天的な他者との違いを与えられた人。
それを苦に世界を絶望視する人もいる。
ここで書くには憚られるほどの苦しみを抱いて死んでいった人達は、ほんとに多く存在するのだと思う。
またその経験を目の当たりにした人は、とてつもない精神の不安定さに脅かされる。
でもそのどれもが、そもそも初めは微かなすれ違いから始まる。
そのすれ違いは、小さな影となり、精神的な傾向を浮き彫りにし、行動、言動、にそれが微かに現れ始める、人はそれを察知して、その人の傾向によって、人はお互い自己防衛を繰り返す。
そのお互いの傷つきたくないジレンマが、お互いに影を落とし、やがては、うそぶき、傷つけ、悲観し、悪びれ、また自己嫌悪に陥り、善悪を求め、出したくもない極論に手を染めるうちに、その様に心が傾いていく。
これは誰かの事を言っているのではない。
もっというなら、誰にでもこの心の傾向は当てはまるのだと思う。
そして、この些細な傾向の始まりはどこに存在するのか?
それは必ずと言っていいほど家族の中にこそ存在する。
何故か、それは人はそもそも自我の形成を伴う過程の中で、一番最初に求め依存し、理想を抱くのが家族だからだ。
これは勿論確率的な事でしかない
が、家族という場こそがトラウマの原石となるほどに関わりと影響と依存性が高い。
ほぼ全ての人間に確実的にトラウマが存在する。
カウンセリング的手法に、人生を逆にたどり一番最初に落とした影を断定し、そこを明らかにする事で解消するという考えがある。
これは勿論宗教的話ではない。
スピリチュアル的話ではない。
人間の話であり。
人の心の話であり。
皆さんの、現実にあった、過去のワンシーンの話である。
自分も例外ではなかった。
些細な、本当に些細な先入観から全ての破綻が生まれた。
人は、常にどの関係性においても、この業、ないしカルマ、先天的精神の作用から来る行き違いがお互いの関係を困難なものにしていく。
だからこその起承転結なのだ。
『これまでの君達へ』
そして私からの願い
これが『私』の願いです。
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