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30年日本史00333【平安中期】一帝二后

 長保2(1000)年2月25日。公卿たちが仰天する人事がありました。藤原遵子が皇太后となり、藤原定子が皇后となり、藤原彰子が中宮となったのです。遂に道長の念願が叶ったことになります。
 元々、中宮と皇后は同一視されていたのに、これを別々に立てるという方便は、かつて藤原道隆が用いたものでした。その際には、太皇太后・皇太后・皇后・中宮という四人の后が併立され、道隆の強引さが話題となったものでした。
 しかしそこで道隆が取った手法は、
「故・円融天皇の妻・遵子を皇后とし、一条天皇の妻・定子を中宮とする」
というものでした。皇后と中宮を分離したものの、その二人はあくまで別の天皇の后だったわけです。
 今回はその際の事情とは異なり、
「一条天皇に二人の后(皇后定子と中宮彰子)がいる」
という前代未聞の異常事態です。一人の天皇に二人の正室がいるというのはあまりにもおかしな話です。人々はこの現象を「一帝二后」と呼んで不思議がりました。
 彰子立后に当たっては、道長の側近である藤原行成が一条天皇に対して
「后3人がいずれも出家しており、このままでは朝廷儀礼を執り行えない」
と理屈をつけて説得したといわれています。「一帝二后」というウルトラCは、行成の巧みな説明あってこそ実現したものだったのですね。
 定子が凝花舎(通称・梅壺)を与えられたのに対し、彰子は飛香舎(通称・藤壺)を与えられました。この時代の古典を読むには、梅壺・藤壺という用語を覚えておく必要があります。
 ここで、梅壺と藤壺それぞれの有名人をまとめておきましょう。百人一首に収録されたのは梅壺では清少納言だけですが、藤壺には6人もいます。
・紫式部
・和泉式部(いずみしきぶ:978?~?)
・赤染衛門(あかそめえもん:956?~1041?)
・伊勢大輔(いせのたいふ:989?~1060?)
・大弐三位(だいにのさんみ:紫式部の娘:999?~1082)
・小式部内侍(こしきぶのないし:和泉式部の娘:999~1025)
 梅壺1人に対し藤壺6人ですから、それだけ道長の彰子サロンへの投資が充実していたということでしょう。梅壺は、政治的にも文化的にも藤壺に敗北したといえそうです。

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