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30年日本史00185【飛鳥】有間皇子の変

 日本書紀によると、孝徳天皇の遺児、有間皇子は幼い頃から狂気を装っていたとのことです。理由については書かれていませんが、中大兄皇子に命を狙われていたためでしょう。漫画「天上の虹」を始め、フィクションの世界ではそのような解釈で描かれることが多いようです。
 いずれにせよ、父が中大兄皇子に利用され、即位したといっても何らの実権を与えられず、最後は一人難波に残り、孤独に死んでいったことを思い、有間皇子は中大兄皇子を憎悪していたと思われます。そして、このような危険分子を放っておく中大兄皇子ではありません。
 斉明天皇4(658)年10月15日。中大兄皇子と斉明天皇は、にわかに牟婁温泉(むろおんせん)に出かけました。現在の和歌山県白浜町の南紀白浜温泉のことです。
 これはいかにも不自然な行幸です。天皇と、その補佐役たる皇太子とが同時に都を離れるなど、危機管理上あってはならないことです。何らかの作為が感じられますね。
 さて、為政者が留守の間に、蘇我赤兄(そがのあかえ:623~?)が有間皇子を訪ねてきました。赤兄は蘇我石川麻呂の弟に当たります。石川麻呂の弟というと、ほかに蘇我日向がいますね。石川麻呂を讒言(ざんげん)により葬った人物でした。ろくな奴がいませんね。
 赤兄は有間皇子に対し、
「現在の政権は土木工事で民を苦しめています。世間はあなたに期待していますよ」
とそそのかしました。これを聞いた有間皇子は、
「私はもう19歳だ。兵を用いても良い年齢だな」
と述べ、政権奪取に意欲を見せました。
 これこそが中大兄皇子が仕掛けた罠でした。11月5日、有間皇子は捕縛され、取調べのため牟婁温泉まで連行されることとなりました。
 連行の途中、磐代(いわしろ:和歌山県みなべ町)で、有間皇子はこのような歌を詠みました。
「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また遷り見む」
 当時、旅の安全を祈って木の枝を結ぶという風習がありました。もし無事に帰って来れたならば、帰り道にまたこの枝を見ることができるだろうという意味です。
 この歌は辞世といわれています。このように詠ってはいるものの、有間皇子はもう死を覚悟していたのでしょう。
 11月9日。牟婁温泉に到着すると、中大兄皇子による取調べが始まりました。
「なぜ謀反したのか」と尋ねられ、有間皇子は「天と赤兄が全てを知っている」とだけ答え、黙秘しました。
 中大兄皇子が下した処断は死刑。有間皇子は11月11日、藤白坂(和歌山県海南市)で絞首刑となります。中大兄皇子は、自らけしかけることで謀反人を作り出し、処刑したのです。

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