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30年日本史00696【鎌倉中期】弘安の役 台風襲来

 日本との激戦から2日後の弘安4(1281)年7月30日夜。鷹島沖に停泊していた元の大船団を台風が襲います。
 この時期に九州に台風が来るのは珍しいことではありませんが、蒙古人、高麗人、江南人からなる元軍にはそうした知識はなかったのでしょうか。
 海が荒れ狂う中、元の船団は操船不能となり、船と船を鎖で連結させていたせいで船は互いに衝突し、次々と沈没していきました。特に江南で造られた船は、日本侵攻のために急ごしらえで造った粗雑な船が多かったようで、衝突の衝撃に耐えられず破船を免れなかったようです。約4000隻あった軍船のうち、残存したのは200隻だったといいます。
 船に乗っていた兵は次々と溺死し、江南軍では(誇張もあると思いますが)半数しか生き残れなかったといいます。
 この事態を受けて、閏7月5日、元軍の中で戦闘を続行するか、帰還するかの議論がなされました。江南軍の司令官は前述のとおりアタハイですが、どうもアタハイが船団の中にいた記録がなく、乗船しなかった可能性が高いようです。事実上の司令官はナンバー2たる范文虎(はんぶんこ:?~1301)でした。
 范文虎は兵の多くが溺死したことと食糧の欠乏を挙げて「帰還すべき」と主張します。一方、都元帥の張禧(ちょうき)は
「溺死を免れた者は、もはや帰還しようという心境にはないでしょう。食糧は敵から奪いながら進めばよいのですから、進んで戦いましょう」
と積極論を述べますが、范文虎は
「もし帰還後に罪に問われたら、私が進んで罰を受けることとする。張禧は罪に問われることはあるまい」
と述べ、あくまでも帰還を主張し、結局元軍は撤退することになりました。
 范文虎は、自身が罰を受けてでも兵たちを守ろうとした人道的な人物と評価できるかもしれませんが、その後の撤退の状況はひどいものでした。生き残った将兵のうち位の高い者が、沈没を免れた船から兵を無理矢理降ろした上で乗り込んで帰って行ったのです。
 鷹島には10万人もの兵が見捨てられたといいますが、
「元々16万人いた兵の半数が溺死し、10万人が見捨てられた」
というのは数字上の矛盾がありますね。いろいろと人数には誇張があるのでしょう。
 一方、張禧は軍船から馬70頭を降ろして、その代わりに兵4千人を収容して帰って行ったそうです。その後、范文虎は罰せられましたが張禧は将兵を見捨てなかったため罰せられずに済んだといいます。

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