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30年日本史00178【飛鳥】乙巳の変 蘇我蝦夷自害

 さて、入鹿を殺害した中大兄皇子と中臣鎌足でしたが、まだまだ戦いは終わりません。まだ父親の蘇我蝦夷が残っているのです。
 蝦夷・入鹿の館は「甘樫(あまかし)の丘」と呼ばれる丘の上にありました。この丘は、宮殿や飛鳥寺を見下ろすことのできる絶好の場所で、
「なるほど。この地を支配すれば飛鳥を支配できそうだなあ」
という印象を受けるところです。
 飛鳥は奈良盆地の南東の端にあり、東側と南側を山に囲まれています。そして甘樫の丘は、その飛鳥に蓋をするような格好で飛鳥板蓋宮の北西側に位置しているのです。つまり、甘樫の丘に兵を多数蓄えておけば、飛鳥に敵が入ることを許したり、逆に飛鳥から敵を逃がしたりすることはありません。戦略的に極めて優れた場所なのです。
 これだけ良い場所に屋敷を構えていた蘇我蝦夷でしたが、意外にも、蝦夷の抵抗はありませんでした。中大兄皇子と中臣鎌足が兵を整えて甘樫の丘を攻略する作戦を練っている最中、丘の上にある蝦夷の館から煙が立ち上りました。蝦夷はかなわぬと見て館に自ら火を放ち、自殺したのです。
 このとき、蝦夷は歴史書「天皇記」「国記」を焼却してしまいました。なぜ政府の公式歴史書が蘇我氏の私邸にあるのか分かりません。蘇我氏が編纂に加わったからでしょうか。この「天皇記」「国記」さえ残っていれば、古代史がもっと明らかになっただろうにと悔やまれます。
 この日、古人大兄皇子は帰宅後に家人に対して「入鹿が殺されたので心が痛い」と洩らしたといいます。古人大兄皇子は蘇我を外祖父に持つだけあって、入鹿の味方だったのですね。
 さて、この蘇我本宗家(蝦夷・入鹿父子)が滅ぼされた事件を「乙巳(いっし)の変」と呼びます。
「あれ? 大化の改新じゃないの?」
と思われるかもしれませんが、大化の改新はここから始まった一連の政治改革の総称です。蘇我蝦夷・入鹿が殺害された事件そのものは「乙巳の変」なのです。
 小学校で習う「大化の改新は何年か」「答え:645年」というのは専門家に言わせれば間違っているのだそうです。実際には、645年以降数年間に渡るものだということです。
 ちなみにNHKドラマ「大化改新」も150分に及ぶドラマなのですが、青年期の鎌足と入鹿が仲良くしている場面から始まり、入鹿が殺害される場面で終わっていました。大化の改新自体は一切描かれていませんでした。
 さて、蘇我本宗家が滅ぼされ、いよいよ中大兄皇子を中心とした新政権が作られます。
しかし、これこそが恐怖政治の始まりだったのです。

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