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30年日本史00923【南北朝最初期】般若坂/男山・天王寺の戦い

 延元3/建武5(1338)年2月28日。般若坂の戦いが始まります。
 桃井直常は兵たちの先頭に進み出て、
「顕家卿の討手は諸将が辞退した大役である。この役割を、我ら兄弟でなくてはできないと言って選ばれたことは、武門の名誉である。この一戦で勝利を得なければ、これまでの功名が無駄になってしまうことだろう。皆、志を一つにして、勇気を奮って攻め破れ」
と命じました。これを聞いた桃井軍の屈強の兵たちが命懸けで斬り込んでいきます。
 北畠軍もまた全力でこれに立ち向かいますが、兵たちは奥州からの長旅に疲れており、次々とやられて散り散りに逃げていくこととなりました。大将たる顕家自身も行方不明となり、直常・直信兄弟は勝鬨をあげて京に凱旋帰国することとなりました。
 敗北した顕家は、命からがら義良親王とともに落ち延びていました。顕家は「殿下をこれ以上危険な戦いに巻き込むわけにいかない」と考え、義良親王を吉野に送り届け、その後河内国で敗残兵をかき集め、再び軍勢を整えます。奥州からずっと戦い通しのはずなのに、顕家の戦意は全く衰えを見せません。
 再び勢力を取り戻した北畠軍は、河内国から和泉国に討って出ます。3月8日には天王寺(大阪市天王寺区)で足利軍に大勝し、その勢いに乗って男山(京都府八幡市)にまで迫りました。もう京は間近に迫っています。
 京の尊氏軍はまた大騒ぎになり、再び討手を送り込むこととなりますが、これまた自ら名乗り出る武将がいません。これではいけないと高師直が自ら手を挙げたところ、諸将はこれに驚いて次々と手を挙げたといいます。まるでダチョウ倶楽部ですね。
 3月13日、高師直は男山への攻撃を開始しました。これが大激戦となり、なかなか陥落させられないことから、高師直は一計を案じ、男山に一定数の兵を残して自身はそのまま天王寺へと向かい始めました。
 顕家からすると、男山を放置して南下して行く高師直はすさまじい脅威です。このまま和泉・河内を支配されてしまっては、その勢いで吉野に攻め込まれるおそれがあるためです。
 顕家は高師直を追って天王寺へと向かい、そこで3月14日に再び戦いが起こります。前回は勝利した顕家でしたが、この度は敗北の憂き目を見ました。やはり、ただでさえ敵より少ない兵力を男山と天王寺に分散せざるを得なかったことが敗因だったのでしょう。
 高い士気を誇る北畠顕家軍と、巧みな戦術で敵を翻弄する高師直軍。両雄の戦いはまだまだ続きます。
 さて、前述のとおり「太平記」によると、高師直は延元2/建武4(1337)年7月に男山に放火しています(00913回参照)。一方、今回取り上げた男山の戦いは古文書によると延元3/建武5(1338)年3月の出来事です。そのため歴史家たちは男山で2度戦いが起きたと考えていましたが、近年の研究では「太平記の作者が時期を誤って記しただけで、実際には1つの戦いだった」との説も有力です。

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