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30年日本史00050【弥生】後漢書東夷伝*

 さて、次なる歴史書は「後漢書東夷伝」なのですが、これは1~2世紀の倭国の状況を5世紀に記述したものなので、若干間が空いていて心配な気がしますね……。
 後漢書東夷伝は、氾曄(はんよう:398~445)が書いた歴史書です。
「建武中元二年、倭の奴国が朝貢してきた。光武帝は印綬を賜いた」
とあります。建武中元二年とは西暦57年に当たります。57年に日本の「奴国」という国が朝貢してきたので、光武帝が「印綬」を授けたというわけです。この「印綬」と思われるものが、天明4(1784)年2月23日、博多湾に浮かぶ志賀島で見つかっています。
 その日、志賀島に住む百姓・甚兵衛(じんべえ)が田畑の水回りを良くしようと水路を掘り直したところ、大きな石に当たりました。それを動かすと、下に光るものがあります。取り出して水で洗ってみると、金の印判のようなものでした。
 甚兵衛は驚き、兄の喜兵衛(きへえ)が以前奉公していた福岡の商人、米屋の才蔵(さいぞう)に見てもらいます。
 才蔵が「これは貴重なものだから大事にしまっておきなさい」と助言したため、甚兵衛が家にしまっておいたのですが、これを聞きつけた庄屋の長谷川武蔵(はせがわたけぞう)が甚兵衛を説得し、郡奉行の津田源次郎(つだげんじろう)に届け出ます。
 津田源次郎が儒学者の亀井南冥(かめいなんめい:1743~1814)に鑑定を依頼したところ、亀井はこれこそ「後漢書東夷伝」で光武帝が奴国に授けた印綬ではないかと主張しました。甚兵衛には褒美として金50両が与えられたといわれています。
 さて、後漢書東夷伝の続きを読んでみましょう。
「安帝の永初元年、倭国王帥升(すいしょう)が生口(せいこう:奴隷のこと)160人を献上し、面会を求めてきた」
 安帝の永初元年とは西暦107年のことです。面会を求めてきたとのことですが、実際に会ったかどうかは書かれていません。
「桓霊の間、倭国は内戦状態で主がいなかった」
 桓帝、霊帝という皇帝がいるのですが、「桓霊の間」とはこれら2人の帝位時代という意味で、147~189年を指します。この記述の後、卑弥呼や邪馬台国の話が出てくるのですが、ここから先は魏志倭人伝を書き写したものと考えられます。
 1~3世紀の日本を描いた後漢書東夷伝は、2世紀後半~3世紀を描いた魏志倭人伝よりも古い時代を扱っているのですが、実際に書かれたのは魏志倭人伝よりも後なのです。
ですから、後漢書東夷伝は魏志倭人伝の影響を大きく受けていると考えられます。邪馬台国に関する記述は後漢書東夷伝と魏志倭人伝の両方にあるのですが、魏志倭人伝の方を原典として扱うことが相当でしょう。
 それでは、次に魏志倭人伝を見ていきます。

福岡県志賀島の「金印公園」にある金印のモニュメント。横には実物大レプリカもある。島ではあるが、砂州で繋がっており車で行ける。

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