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30年日本史00335【平安中期】和泉式部 道ならぬ恋

 藤壺の話をしたついでに、藤壺に出仕した歌人・和泉式部と、高い文学的価値が認められる「和泉式部日記」について取り上げておきましょう。和泉式部は「恋多き女」として宮中で有名だったらしく、同時代の人からはいたく評判が悪いようです。
 和泉式部は貞元3(978)年頃、越前守・大江雅致(おおえのまさむね)の娘として産まれました。母の名前は不明ですが、平保衡(たいらのやすひら)の娘と系図には記されています。
 長徳2(996)年頃、和泉式部は和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ:?~1016)と結婚しました。「和泉式部」という名は夫の役職名から付けられたものです。
 長徳5(999)年頃に、夫との間に一子(後の小式部内侍)をもうけますが、この結婚生活は数年で破綻することとなります。原因は分かっていませんが、恐らく和泉式部が為尊親王(ためたかしんのう:977~1002)と不倫関係にあったためではないかと考えられます。
 為尊親王は冷泉天皇の三男で、和泉式部はいつからか、夫がありながら為尊親王との逢瀬を重ねていました。しかしこの不倫がまたたく間に宮中で広まり、和泉式部は親から勘当されてしまいます。道貞と離別して為尊親王との愛を貫いた和泉式部でしたが、長保4(1002)年、為尊親王は26歳の若さで伝染病にかかり死去してしまいました。
 為尊親王の死から一年、悲嘆に暮れていた式部のもとに、ある日、為尊親王の弟・敦道親王(あつみちしんのう:981~1007)から橘の花が一枝送られてくるところから「和泉式部日記」は始まります。
 橘の花にこめられた意味とは、
「五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」(詠み人知らず)
という和歌にかけて、「ともに亡き人の面影を偲びましょう」というものでした。
 式部は返書を書き送ります。
「薫る香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや同じ 声やしたると」
(橘の香りに今は亡き人を偲ぶよりも、あなたの声が聞きたい。お兄さまと同じ声かどうかを知りたい)
 敦道親王からの返歌はこうです。
「同じ枝に 鳴きつつおりし ほととぎす 声は変わらぬ ものと知らずや」
(同じ枝に鳴くほととぎすのように、同じ人から生まれた兄弟ですから、声は同じと思ってください)
 ここから敦道親王からの猛アタックがかかります。敦道親王は幾度となく和歌を書き送りますが、和泉式部からの返事はなく、敦道親王は直接和泉式部を訪ね、そこでやっと二人は結ばれるのです。

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