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30年日本史00680【鎌倉中期】二月騒動

 元との軍事的緊張が高まる中、幕府内では時ならぬ内紛が起ころうとしていました。
 名越北条氏は、北条家の中で反逆の家系として知られています。名越北条氏は義時の次男・朝時が名越に住み始めたことに始まりましたが、その朝時は(明確な証拠はありませんが)4代将軍頼経と結びついて反逆を企てたらしく、それが頼経失職の契機となりましたし、朝時の子の光時もまた頼経と接近して伊豆国江間郷(静岡県伊豆の国市)に流罪となりました。
 今度は、光時の弟に当たる名越時章(なごえときあき:1215~1272)と教時(のりとき:1235~1272)が前将軍・宗尊親王の反乱計画に与したという話が聞こえてきたのです。この情報を受けて、文永9(1272)年2月11日、時宗の御内人である四方田時綱(しほうでんときつな:?~1272)と渋谷朝重(しぶやともしげ:?~1272)は、名越時章・教時兄弟を誅殺しました。
 ところがその後、時章・教時兄弟の無実が発覚したとして、時宗は
「命令も受けていないのに勝手な行動をした」
として四方田・渋谷の殺害を命じます。敵対者に謀反の罪を着せて殺し、その実行犯を口封じに殺したものと考えられます。
 さらに2月15日には、六波羅探題南方を務めていた時宗の兄・時輔も、謀反を起こしたかどで北方の赤橋義宗(あかはしよしむね:1253~1277)に殺害されました。根拠となる史料は一切残っていませんが、時章・教時兄弟が時輔とつるんで何らかの敵対的な行動を取っていたことは事実なのでしょう。
 この名越兄弟と北条時輔の横死を「二月騒動」といいます。この事件については史料が少なく原因も不明で、謎が多いことから様々な創作作品の題材となっています。
 大河ドラマ「北条時宗」では、渡部篤郎演じる北条時輔はこのとき辛くも脱出し、元に渡ってフビライの日本侵攻に協力するというイマジネーションに富んだ演出がなされていました。
 たかぎ七彦の漫画「アンゴルモア 元寇合戦記」は、架空の御家人・朽井迅三郎を主人公に据え、文永の役における対馬の戦いを描いた作品ですが、朽井迅三郎は名越時章の友人で、謀反の罪を着せられる時章を救おうと反乱を企て対馬に流罪となり、そこで元軍の侵攻に抗うという設定です。
 いずれにせよ、二月騒動は時宗のイニシアチブによって敵対者が粛清された事件であり、弱冠20歳の時宗が実権を一手に握っていたことが窺い知れます。

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