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30年日本史00220【奈良】墾田永年私財法

 話は前後しますが、聖武天皇の放浪のさなか、天平15(743)年5月27日に制定された墾田永年私財法について、説明しておく必要があるでしょう。
 前述したとおり、養老7(723)年に制定された三世一身法によって、農民が自ら開墾した田は、孫までの3代の間だけ私有が認められることとなりました。しかし、結局孫の世代になってからは国に返さなければならないことから、農民の開墾意欲を増大させるには不十分でした。また、開墾された田も、最後に国に返す時期が迫ると手入れがなされなくなり、荒れ地に戻ってしまいがちでした。
 このような状況を踏まえ、開墾した田を永続的に私有できる仕組みを設けて、開墾地を増やそうという法令が「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」です。
 私有地とはいえ、開墾した田で収穫した稲については、その一部を税として取り立てられます。その点は班田収受法によって国民に貸与される「口分田」と同じです。
 しかし、口分田と違って、私有地には売買と相続が認められるのです。
 この法令は、農民の開墾意欲を増大させ、食糧生産を増やすことを目的としたものでしたが、農民たちに自力で開墾を行う余裕はなく、結局のところ有力氏族や寺院ばかりが人を雇って開墾を進めていきます。
 つまり、墾田永年私財法は、有力氏族と寺院の私有地を拡大していく契機となったのです。これによって生じた私有地を「荘園(しょうえん)」と呼びます。
 だいぶ後のことですが、大規模荘園を持つ有力氏族と寺院は、国司と交渉して不輸の権(租税を納めなくてもよい権利)を勝ち取ったり、国司と結託して土地台帳に記載されない秘密の耕地を保有したりするようになります。そのため、墾田は拡大したものの、その果実が政府にはなかなか入ってこなくなってしまうのです。
 政府の租税収入が少ない原因は、一つは戸籍の虚偽記載(つまり、住民を少なく見せ、租税を納めなくてよいようにする)でしたが、もう一つが荘園の存在でした。平安時代に入ってから、政府は不輸の権を持つ荘園を何とかして減らそうと、何度も荘園整理を試みるのですが、いずれも不十分な結果に終わってしまいます。
 というのも、最大の大規模荘園領主が藤原氏であり、その藤原氏が政府のトップに立っている以上、藤原氏やその息のかかった氏族の荘園には手が出せません。他の荘園領主たちも、こぞって藤原氏に賄賂を贈るなどして、荘園整理から逃れようと必死になります。
 藤原氏にとっては、国家財政がいかに窮乏していても、自身のプライベートな家計の財政が潤っているため、改革しようという意欲が湧かなかったのでしょう。こうして古代日本は、財政を投じた福祉政策はほとんど行われず、貧富の差が拡大していくばかりの国家となってしまうのです。

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