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30年日本史00186【飛鳥】蝦夷遠征と百済滅亡

 政敵をまたしても葬り、勢いづいた中大兄皇子は、遠隔地の統治に乗り出します。
 この時代、朝廷の統治が行き届いているのはせいぜい関東まででした。現在でいうところの東北地方は「蝦夷(えぞ)」と呼ばれ、まだ朝廷に従わない勢力が大勢いたのです。
 朝廷は、斉明天皇4(658)年から6(660)年にかけて、3度に渡って阿倍比羅夫(あべのひらぶ)を大将とする蝦夷遠征軍を派遣しました。
 斉明天皇4(658)年4月の第1回遠征では、能代(秋田県能代市)に行くと蝦夷は戦わずして降伏したとあります。
 斉明天皇5(659)年3月の第2回遠征では、津軽に住む蝦夷を手なづけました。
 斉明天皇6(660)年3月の第3回遠征では、「粛慎(みしはせ)を討った」との記述があります。この解釈は諸説あります。
 「粛慎」とは、中国東北部(満州)に住むツングース族のことです。さすがにこの時代に中国東北部まで遠征したとは考えられません。もしかすると、この時代にはツングース族は北海道にも住んでいて、阿倍比羅夫は北海道に住む民族と戦ったのではないでしょうか。
 さて、中大兄皇子は蝦夷対策にかまけてばかりはいられませんでした。このとき、朝鮮半島の勢力図が大きく書き換わろうとしていたのです。
 倭国は百済と良好な関係を築いていました。それも対等な関係ではなく、倭国が百済を付き従わせる上下関係が出来上がっていたのです。
 百済からは王子・豊璋(ほうしょう)が人質として倭国に住み着いており、中大兄皇子は重要な政務事項に豊璋を関わらせ、いわば豊璋に帝王学を教育していました。ところが朝鮮半島では、唐と同盟を結んだ新羅の勢いがすさまじく、唐・新羅連合軍が百済に侵攻を始めてしまいます。
 斉明天皇6(660)年。百済の義慈王(ぎじおう:599~660)が投降し、これをもって百済は滅亡しました。
 10月、義慈王のいとこに当たる鬼室福信(きしつふくしん:?~663)は日本に亡命し、
「豊璋を返還してほしい。百済再興に向けて協力してほしい」
と要請してきます。
 朝廷の重臣たちは困惑しました。倭国は唐・百済の両方とかねてより親交関係があります。今回、唐を敵に回してでも百済の味方をすべきか否か、二者択一を迫られることになったのです。
 豊璋をかわいがる中大兄皇子は、リスクをとってでも百済再興に協力することとし、反対派の意見を退けて援軍派遣を決定しました。この決定が、倭国を窮地に立たせることとなります。
 いよいよ古代史上最大の対外戦争、白村江の戦いが始まります。

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