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30年日本史00463【平安末期】房総半島への渡海

 石橋山の戦いに敗れた頼朝にとって、頼れそうな相手は三浦半島一帯を領地とする三浦一族でした。三浦半島には衣笠城(神奈川県横須賀市)を拠点とする豪族・三浦義明(みうらよしあき:1092~1180)がおり、頼朝に味方することを表明してくれていました。
 頼朝らは三浦半島に向かおうとしますが、その途上の治承4(1180)年8月26日、三浦義明が河越重頼(かわごえしげより:?~1185)・江戸重長(えどしげなが)・畠山重忠(はたけやましげただ:?~1205)連合軍に敗北し、討ち死にしたとの知らせが入ってきました。これを衣笠城の戦いといいます。
 戦いに敗れた三浦義明の子・義澄(よしずみ:1127~1200)と、孫・和田義盛(わだよしもり:1147~1213)らは、安房(千葉県南部)へと敗走しました。
 ちなみにこの時代の東国武士は、自らの意志で新天地を切り開いてその地名を名乗ることが多く、子や孫の苗字が異なることは珍しいことではありません。和田義盛は三浦一族ではありますが、相模国三浦郡和田に居を構えたので「和田」という苗字を名乗っていたのです。
 8月28日。頼朝は土肥実平の進言により、真鶴岬(まなづるみさき:神奈川県真鶴町)から海路で安房に渡り、三浦義澄・和田義盛と合流しました。一旦退避して、味方を増やしてから再度西上しようという考えです。千葉県鋸南町に頼朝上陸地の碑があります。
 安房にも平家方に与する勢力がおり、長狭郡(千葉県鴨川市)を拠点とする長狭常伴(ながさつねとも:?~1180)が頼朝の命を狙いましたが、9月3日に三浦義澄が長狭常伴を討ち、事なきを得ました。三浦義澄はなかなか頼りになる男のようです。
 頼朝は、房総半島内で味方になってくれそうな勢力を探し始めます。目をつけたのは、千葉常胤(ちばつねたね:1118~1201)と上総広常(かずさひろつね:?~1184)です。
 まず、千葉常胤はその名のとおり千葉(千葉県千葉市)を本拠としていた豪族です。現在、本千葉駅の近くに千葉城という城があり、その城の前に千葉常胤像があります。惜しむらくは、昭和に再建された千葉城は鎌倉時代にはなかったはずの天守閣を備えており、歴史考証上あり得ない建築となってしまっています。
 一方、上総広常は「上総介広常(かずさのすけひろつね)」などとも呼ばれ、上総介の職に就いていた人物です。国司の中では、「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の順に職位が高いので、上総介は上総国司のナンバー2ということになります。ただし、「守」は現地に赴任しない名誉職として扱われることも多く、上総守は代々現地に赴任しないのが慣例でした。つまり上総の実質トップということになります。現在の千葉県東金市を本拠としていました。
 9月4日。頼朝は安達盛長を派遣し、千葉常胤と上総広常に服属を迫ります。

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