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30年日本史00562【鎌倉前期】曽我兄弟の仇討ち 河津祐泰横死

 さて、京に残された工藤祐経は武者所で勤務し始め、みるみる出世していきます。徐々に世の中を知るようになった祐経は、やがて自分が領地を横領されたことに気づき、怒ります。訴訟を起こすことでどうにか伊東祐親から領地を取り返そうとするのですが、この時代、訴訟に勝つには賄賂が必要です。伊東祐親は豊富な農業生産力に裏打ちされた財力で役人への賄賂攻勢をかけていましたから、祐経はどうしても勝訴することができません。
 我慢ならなくなった工藤祐経は、伊東に潜入して伊東祐親一族の命をつけ狙うようになります。祐経の郎党の大見小藤太(おおみことうた)と八幡三郎(やはたのさぶろう)が、祐経の命を受けて祐親暗殺を企てます。
 さて、祐経一行にとって絶好の機会がやって来ます。伊東祐親が辺り一帯に住む豪族たちを招いて、狩りを主催するというのです。大見小藤太と八幡三郎は招かれたように装って一行に加わり、狩りに参加していました。しかし、なかなか機会をものにできないまま終わってしまいました。
 狩りが終わった後、一同は相撲に興じ始めました。次々と力自慢の東国武士たちが対戦し、場は大いに盛り上がりました。中でも相模国・俣野景久(またのかげひさ)は、32番も対戦して一切負けなかったといいます。俣野は図に乗って皆を侮るような言葉を吐き、
「他に自分と対戦する者はいないのか」
と周囲を見渡しました。
 ここで名乗りを上げたのが、伊東祐親の子の河津祐泰でした。河津祐泰は七尺ばかりもある大男で、驚異的な腕力で俣野を二度に渡って投げ飛ばしました。
 ちなみにこのときの決まり手は「河津掛け(かわづがけ)」と名付けられました。物の本を見ると、
「相手の足に自分の足を絡ませ、後方へ引き、自分の体重をかけて、後方へ倒す技」
と説明されています。
 狩りに続いて相撲でも盛り上がった一同は、夕方に解散しました。そこで事件が勃発します。岩陰に身を潜めていた大見と八幡が、伊東祐親・河津祐泰父子に矢を射かけたのです。大見の放った矢は祐親の指をちぎるに留まりましたが、八幡の放った矢は河津祐泰の急所に当たり、祐泰は倒れ落ちました。
 祐親の手に抱かれた祐泰は
「大見と八幡の姿が見えた」
と言い残し、息絶えてしまいます。

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