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30年日本史00924【南北朝最初期】北畠顕家上奏文

 延元3/建武5(1338)年3月からの北畠顕家と高師直の一進一退の攻防を、「太平記」はなぜか急ぎ足に描いており、具体的な戦況が伝わって来ません。そこで古文書を参照するしかないのですが、
・3月15日に渡辺(大阪市中央区)で両者が戦い、北畠顕家が勝利したらしい
・3月16日に阿倍野で両者が戦い、高師直が勝利したらしい
ということが分かっている程度で、情報が足りません。
 仮に具体的な戦況が伝わっていたとしても、それを語るほうも読むほうも退屈してしまいそうですね。まさに一進一退です。
 恐らく両者の実力が伯仲していて、どの戦いも敗者に壊滅的な被害を与えられないまま終結したのでしょう。「太平記」がこれまで詳細な戦況を述べてきたのに、ここだけ突然すっ飛ばしてしまう理由が分かる気がします。
 その後、北畠顕家と高師直の小競り合いが5月まで続くのですが、ここで、5月15日に顕家が後醍醐天皇に奉じた上奏文について紹介しておきましょう。これは「太平記」ではなく、醍醐寺(京都市伏見区)に残っている古文書の中から発見されたものです。
 この上奏文というのが、なんと「二条河原の落書」と同様、後醍醐天皇による新政を真っ向から批判したものなのです。
 上奏文は7項目からなりますが、まず注目すべきは第2項の「倹約して減税し、民の負担を減らすこと」や第5項の「臨時の行幸や宴のような贅沢をとりやめること」でしょう。後醍醐天皇が民の貧困をよそに大内裏の造営計画を進めていたことを批判しているものと考えられます。
 次に、第3項「能力ある者を登用すること」、第4項「僧侶の待遇を公平にすること」、第7項「無能な者を排除すること」は、後醍醐天皇が気に入った者を次々と引き上げていたことを非難しているものと考えられます。
 さらに第6項「法令を厳格に運用すること」は、天皇が綸旨を乱発して朝令暮改を繰り返したことを戒めるものです。
 上奏文はこれら天皇の失政を次々とあげつらい、最後に
「誤りを正さず太平の世に戻す努力をなされないなら、私は帝のもとを離れて山林に隠れるでありましょう」
とまで言ってのけます。
 残念ながら後醍醐天皇の反応は伝わっていませんが、弱冠20歳の若き公卿にここまで政治を非難され、天皇はどのような思いを抱いたのか気になりますね。そして残念ながら、天皇にこれほど激情的な上奏をした僅か1週間後に、顕家は戦死してしまうのです。

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