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30年日本史00552【鎌倉初期】大河兼任の乱

 奥州合戦によって泰衡は敗死しましたが、戦場とならなかった出羽国の内陸部には、無傷で残った泰衡陣営の武士たちがまだまだ健在でした。彼らは奥州総奉行に任命された葛西清重とその配下の武士たちにあくまで抵抗します。
 反乱の首謀者は、藤原泰衡の郎党で八郎潟(秋田県五城目町)を本拠とする大河兼任(おおかわかねとう:?~1190)でした。兼任は自らを義経と称したり、木曽義仲の嫡男・義高と称したりして鎌倉方を撹乱していましたが、文治6(1190)年1月6日、7千騎の軍勢を率いて多賀城(宮城県多賀城市)に進軍を開始します。
 ところが、八郎潟を渡る際に氷が突然割れ、7千騎のうち5千騎あまりが溺死したといいます。7千騎もの大軍が凍結した湖面の上を歩くという危険な行為をあえて冒すとはさすがに思えず、鎌倉方が恣意的に誇張して記録したものと思われますが、いずれにせよ、兼任は兵を失ったものの進路を変えて小鹿島(秋田県男鹿市)に向かい、鎌倉方の由利維平を討ち取りました。
 兼任は津軽から回り込んで平泉に達し、泰衡の残党を配下に加えて1万騎もの大軍に膨れ上がりました。
 1月18日。鎌倉に到達した知らせは
「小鹿島公業(おがしまきみなり)が討ち死に。由利維平は逐電」
という内容でした。これを聞いた頼朝は、
「これは誤報で、真実は逆だろう。普段の二人を知っているから分かる」
と述べますが、その後、頼朝の言う通り
「由利維平が討ち死に。小鹿島公業が逐電」
であったことが判明しました。このエピソードは、頼朝は個々の御家人の性格を知り尽くしていたことを示しています。こうした人心掌握術こそが、頼朝が武士団を経営していく上で必要なことだったのでしょう。
 2月12日、兼任軍は栗原郡(宮城県栗原市)で頼朝が派遣した足利義兼(あしかがよしかね:1154~1199)の軍と激突し、壊滅的打撃を受けました。兼任は残った500騎で衣川で反撃しますが、これまた敗北し、再起を図ろうと各地を転々とします。
 やがて兼任は密かに栗原郡に戻りましたが、3月10日、栗原寺付近で錦の脛巾(はばき)を着て金作りの太刀を帯びた姿で歩いているところを地元の樵に見つかり、斧で斬殺されたと伝えられています。そんな姿で歩いていたら大将首だと丸分かりなのに、不用意ですね。
 こうして、3ヶ月に及んだ反乱は終息しました。

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