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30年日本史00586【鎌倉前期】建仁の乱

 梶原景時の死は一年経って、京に飛び火することとなりました。正治3(1201)年1月23日。御家人・城長茂が後鳥羽上皇の住む院御所に押しかけ、源氏打倒を訴えたのです。
 城長茂といえば、当初は平家方について木曽義仲と戦っていた人物です。治承5(1181)年の横田河原の戦いで義仲に敗れ、やむなく会津(福島県)に逃れますが、そこで奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後に逃げ込んでいました。
 元暦2年(1185年)に平家が滅亡すると、長茂は平家方の一員として捕縛され、梶原景時に身柄を預けられました。その後、文治5(1189)年の奥州合戦において、長茂は捕虜の立場に甘んずることを潔しとせず、従軍したいと言い出しました。
 景時の取りなしによって従軍が許された長茂は武功を挙げ、晴れて鎌倉の御家人の一人に列せられました。
 このような経歴を持った長茂ですから、梶原一族が滅ぼされたことに憤りを覚え、軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げたというわけです。
 当然、後鳥羽上皇に相手にされるわけもなく、長茂は吉野山(奈良県吉野町)に逃亡しましたがそこで捕獲され、建仁元(1201)年2月25日に処刑されました。
 この長茂の決起には、藤原秀衡の息子の中で唯一の生き残りであった四男・高衡も参加していたのですが、その高衡も2月29日に討ち取られました。
 しかし反乱はまだ継続します。捕縛を免れていたのは、長茂の妹で板額御前(はんがくごぜん)という女武将でした。
 吾妻鏡は板額御前を評して
「女性の身ではあるが、弓矢は百発百中で父や兄を超えている。この女に矢で狙われた者は皆死んだ」
と書いており、相当な強者であったと考えられ、その出身地であるJR中条駅前(新潟県胎内市)には銅像があるほどの人気ぶりです。
 板額御前はその後3ヶ月に渡って戦いますが、最終的に矢を両脚に当てられ捕虜となり、それとともに反乱軍は全滅しました。板額御前は鎌倉に護送され、将軍頼家の尋問を受けましたが、全く臆する様子もなく御家人たちを感嘆させたといいます。
 感嘆した御家人のうちの一人に、浅利義遠(あさりよしとお:1149~1221)がいました。義遠は頼家に願い出て、板額御前を妻として娶ることとなりました。その後一男一女をもうけたといいます。
 板額は義遠の妻として甲斐国浅利(山梨県中央市)に住んだと伝わります。その浅利に程近い笛吹市境川町には板額御前の墓所と伝わる板額塚があります。

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