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30年日本史00784【鎌倉末期】足利高氏決起*

 元弘3/正慶2(1333)年4月29日。足利高氏は船上山に向かう途中、篠村八幡宮(京都府亀岡市)に立ち寄りました。高氏は船上山への進軍を止めてそのまま篠村八幡宮にとどまり、5月7日にはそこに願文を提出します。長い長い願文ですので、省略しつつ引用することとしましょう。
「高氏謹んで申し上げます。思えば八幡大菩薩さまは我が祖先の霊廟であり、源家中興の守護神であらせられます。
 さて、承久の乱以降、源家の家臣で平氏の末端にすぎぬ北条氏の奴らがほしいままに政を牛耳り、九代にも渡って権力を振るっております。日本国の帝王たる先帝陛下は、彼らによって西海の波の彼方に追いやられました。北条氏の悪逆の甚だしきは前代未聞です。臣下の道を踏み外し、神々に敵対する彼らには天罰が下ることでしょう。
 この高氏は彼らの積悪を見過ごすことができず、ここに決起いたしました。その動機は、自らの遺恨を晴らすといった私的なものでは決してありません。
 我が誠の心は以上のとおりですので、何卒我らをお見守りください」
 高氏は自ら筆をとってその願文に署名し、鏑矢を一本添えて社殿に供えました。高氏に従う者たちもまた矢を一本ずつ献上したため、社殿に矢がうずたかく積み上がりました。
 さて、高氏が決起の場所として篠村八幡宮を選んだのはなぜだったのでしょう。
 そもそも八幡宮が祀る八幡神(応神天皇)は戦いの神であり、源氏の守り神です。頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を建設したのも、源氏が治める鎌倉幕府を八幡神に守ってもらうためだったのですね。
 その鎌倉幕府が平氏である北条氏に乗っ取られ、源氏の末裔である足利高氏がこれを滅ぼそうというわけですから、八幡神を祀る八幡宮でこそ決起したいという気持ちは理解できます。
 さらに篠村は尊氏の母・上杉清子(うえすぎきよこ:1270?~1343)の出身地である上杉荘(京都府綾部市)に程近い場所で、そもそも高氏自身も上杉荘で産まれたとの説もあります。自らの出生地に近い篠村は縁起のよい場所だったのでしょう。
 篠村八幡宮で反逆の意図を明らかにした高氏は、京の方へ引き返し始めました。峠道を越えようとしたとき、ひとつがいの山鳩が飛んで来て、旗持ちが持つ白い大将旗の上をひらひらと舞い始めました。高氏は驚き、
「あれこそは、八幡大菩薩が我らをお守り下さっている証拠だ。あの鳩について行け!」
と叫び、足利軍の士気は大いに上がりました。
 古来、鳩というのは八幡神の使いといわれており、鶴岡八幡宮の額の「八」という字はひとつがいの鳩を模して書かれています。鶴岡八幡宮の近所にある豊島屋は、八幡宮と関連の深い動物だからこそ、鳩を模した「鳩サブレー」を売っているわけです。

鶴岡八幡宮の額。「八」の字が鳩を模しており、鳩が八幡神の使いであることを表している。

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