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30年日本史00584【鎌倉前期】梶原景時の変 景時の最期

 正治元(1199)年11月12日。梶原景時弾劾状は頼家に提出され、これを見た頼家は直ちに景時を召し出して尋問しました。景時もさすがに66人もの署名を見て諦めたのか、一切弁明をしませんでした。
 12月18日。頼家の決定により、景時は鎌倉から追放され領地の相模国一宮(神奈川県寒川町)に引き籠もりました。
 正治2(1200)年1月19日になって、景時は息子らとともに京を目指して東海道を西下し始めました。この情報が、翌20日には
「景時は謀反を企み、上洛を図っている」
との情報になって鎌倉にもたらされました。
 果たして景時が本当に謀反を企んだのかは分かりません。この時代、東国武士は鎌倉に仕え、西国武士は京で朝廷に仕えるという形で、国が二分されていましたから、鎌倉を解雇された景時はいっそ京で朝廷に仕える武士になろうと考えたのかもしれません。必ずしも鎌倉を滅ぼそうという考えではなかったと思うのですが、それでも幕府はこれを見逃しませんでした。
 北条時政、大江広元らは協議して、東海道に追っ手を放ちますが、景時らは既に駿河国(静岡県)に入っており、追いつくことはできませんでした。
 ところが、景時は思わぬ伏兵に足をとられます。駿河の清見関(静岡市清水区)まで来たところで、たまたま居合わせた在地の武士らと合戦になり、矢を射られたというのです。景時と、長男の景季、次男の景高、三男の景茂は重傷を負い、山上に逃れたところで一族33人ともども自害しました。景時の辞世は
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ 心の知らぬ 名こそ惜しけれ」
でした。
 吾妻鏡の記述はいかにも怪しく、また説明不足です。在地の武士との間で合戦となった理由も説明されておらず、清見関に武士がたまたま集まっていたというのも説得力がありません。
 梶原景時が自害した高さ300メートルあまりの山は「梶原山」と名付けられ、現在梶原山公園としてハイキングコースなどが整備されています。山頂には梶原景時一行の碑があります。
 吾妻鏡は景時の死について
「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」
と総括しています。

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