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激論昭和史002 昭和は失言と大喧嘩で始まった ~第一次若槻内閣~

いよいよ今回から本編です。
できれば全100回くらいで昭和64年まで行きたい。
ということは、最初のうちは一回で一内閣取り上げるくらいのペースで行かなきゃだ。
頑張ります!

第一次若槻内閣

リベ太「では、今日から昭和史講座を始めよう。基本的には保守美に説明役を頼むよ」

史保理「お願いします」

保守美「では、大正15年12月25日、クリスマスの夜に葉山の御用邸で療養していた大正天皇が崩御するところから話を始めましょう」

左代子「1926年12月25日ね。あと、その『崩御』って言葉、何とかならないの? 命は平等なのよ。天皇だけ『崩御』なんて言い方するのやめてほしいわ」

右比古「はいはい、無視して続けようぜ」

保守美「天皇崩御を受けてその日のうちに枢密院会議が開かれ、新しい元号が『昭和』に決定されました」

リベ太「昭和元年というのは、12月25日から31日までの1週間しかなかったんだね。そういや昭和64年も1月7日に終わるよね。昭和というのは64年続いたと思われてるけど、実際には62年と2週間だったんだね」

若槻礼次郎

リベ太「昭和改元当時の政治情勢についても説明しておこうか」

保守美「当時の首相は若槻礼次郎(わかつきれいじろう)。当時与党だった『憲政会』という政党の総裁です」

史保理「その若槻さんというのはどんな人物だったんですか?」

保守美「若槻は松江藩、つまり島根県の貧乏な下級武士の家に生まれ、苦学して東京帝国大学に入学しました」

首相・若槻礼次郎(Wikipediaより)

リベ太「大学時代の試験の平均点は98点で、この記録はいまだに破られていないという噂を聞いたことがあるけど、本当かどうかは分からないなあ」

保守美「大学卒業後、高等文官試験をトップで合格し、大蔵省に入ります」

史保理「トップ合格ですか??? すごい……」

リベ太「当時、トップ合格者は大蔵省か内務省に入るのが一般的だったんだ。中央省庁の中ではこの2つが最大の権力を持つ役所だったんだね」

保守美「若槻は大蔵省の中で大蔵次官にまで上り詰めます。役人界のトップですね」

史保理「大蔵省のトップは大蔵大臣じゃないんですか?」

リベ太「そうなんだけど、大蔵大臣というのは内閣総理大臣が選定するから、大蔵省の役人の中から選ばれるとは限らないんだ。政治家から選ぶこともあれば、財界から選ぶこともある。だから、大蔵次官というのはナンバー2ではあるけれど、大蔵省に就職して大蔵省の中で育って来た役人の世界の中ではトップの役職だ」

右比古「今も各省庁には『事務次官』っていう役職がある。大臣の指示を受けて動くナンバー2ではあるんだが、大臣はまるっきり実務を知らない政治家が務めるケースもあるから、事務次官こそが事実上のトップになる場合も多いらしいぜ」

左代子「大臣と違って事務次官は選挙で選ばれたわけじゃないから、大臣の指揮をしっかり受けてもらわないといけないけどね」

保守美「若槻は大蔵次官を経験後、桂太郎(かつらたろう)首相に誘われて政治家になり、加藤高明(かとうたかあき)ひきいる『憲政会』に入党します。大正15年1月に加藤総裁が死去したことに伴い、若槻はその後継者となり、第一次若槻内閣を組閣しました」

史保理「若槻さんの経歴は分かったんですけど、性格的にはどんな人だったんですか?」

リベ太「そうだなあ。僕の印象では『平和主義者だし優秀なんだけど、肝心なところで軍部に強く出られず、ぐにゃりと腰砕けになってしまう』というイメージかなあ」

左代子「同感だわ。まだ先の話だけど、満州事変のときにまさにそんな感じになっちゃうのよね」

保守美「でもロンドン海軍軍縮条約のときは割と強いリーダーシップを発揮しましたよね。先の話を次々しちゃうと史保理さんが混乱しちゃうから、この辺にしときましょうか」

右比古「ちなみにタレントの若槻千夏は本名を栗原千春というんだが、芸名を若槻礼次郎から取ったらしいぜ」

リベ太「へえー。若槻千夏って昭和史に詳しいのかな」

右比古「いや、別に歴史に興味があるわけではなくて、何となく良い苗字だと思ったと言ってたな」

保守美「脱線ついでですけど、昭和が終わったときの総理大臣は竹下登(たけしたのぼる)で、これも島根県出身なんです。昭和は島根に始まり島根に終わる。何だか奇妙な符合を感じますね」

リベ太「ほんとだねえ」

第一次若槻内閣の覚えるべきこと

保守美「第一次若槻内閣の事績について、大学受験レベルで覚えておくべきことをまとめておきましょうか」

1 震災手形処理法案の審議中に片岡直温蔵相が失言し、銀行で取付け騒ぎが発生した。これを金融恐慌という。
2 南京で起こった領事館襲撃事件(南京事件)に幣原喜重郎外相が対応したが、右翼から弱腰と糾弾された。
3 台湾銀行救済勅令案が枢密院に否決されたため、総辞職した。

右比古「1は有名だが、2と3は大学受験レベルじゃねーよ。マニアック過ぎるだろ」

リベ太「いま手持ちの山川教科書を見ると、3はちゃんと載っているよ。2はうーん、早稲田政経なら出題されるかもしれないかな」

震災手形処理法案

史保理「聞いたことないものもありますね……。震災手形処理法案って何ですか?」

保守美「大正12年に・・・」

左代子「1923年ね」

保守美「そう、大正12年に起こった関東大震災で、多くの企業が打撃を受け、支払いのできない手形が生まれてしまったんです。これを『震災手形』といいます」

史保理「てがた?」

リベ太「企業同士で売買を行う際には、よく『手形』が使われるんだ。例えば小売店が卸売店から何か物を買ったら、その場で即座にお金を払うんじゃなくて、『手形』と呼ばれるものを相手に渡して、その『手形』に書かれた金額を月末にまとめて支払うんだ」

史保理「なるほど。ツケで払うようなイメージですね」

保守美「そうです。でも、関東大震災のせいでそのツケが払えなくなった企業がいっぱい出てきてしまったんです。払えなくなった手形のことを『不渡り手形』などと呼びます。震災のせいで大量に発生してしまった不渡り手形を『震災手形』と呼ぶわけです」

史保理「その震災手形を処理する法案ってことですか?」

保守美「そうです。震災手形を持っていて、そのお金を回収できずにいる企業に対して、日本銀行が代わりにお金を一部支払ってあげようという法案です」

史保理「要するに、震災で困っている企業を助けてあげようということですね」

片岡蔵相の失言

保守美「その法案を審議している最中の昭和2年3月14日に・・・」

左代子「1927年ね」

保守美「そう、昭和2年3月14日に、大蔵大臣の片岡直温(かたおかなおはる)が大失言をしてしまうんです。片岡は早くこの法案を通してほしいばっかりに、銀行がどれだけ苦しい状態に陥っているかを強調しようとして、あの有名な一言を言ってしまうんです」

左代子「現に本日正午頃、東京渡辺銀行が破綻をいたしました……ってやつね」

蔵相・片岡直温(wikipediaより)

史保理「そのセリフ自体は聞いたことあるんですけど、なぜ失言なんですか?」

右比古「銀行ってのは、信用で成り立ってんだよ。銀行がどうやって儲けてるか知ってるか?」

史保理「えっと、お客さんからお金を預かって、その預金を企業などに貸し付けて、利子をもらって……」

右比古「そう。その利子で儲けるってことだよな。例えばある銀行で、お客さんから10億円くらいの預金を預かっていたとするだろ。その銀行が10億円のうち8億円を企業に貸し出したとする。手持ちの金は2億だ。そんなときに、預金者全員が『金を引き出したい』と言ってやって来たらどうなる?」

史保理「お金はありませんって言うしかないですね。でも、そんなこと起こり得ないんじゃ……」

右比古「そう。普通に経営していればそんなことは起こり得ない。でも、『あの銀行つぶれるらしいぞ』という噂が出回ってしまったら?」

史保理「あ、つぶれる前に預金を引き出そうって思いますよね」

リベ太「そういうこと。銀行はお客さんの信頼を失ってしまったら、預金を引き出そうとする人が殺到して、大混乱に陥ってしまうんだ。だから、片岡蔵相は絶対に言ってはいけないことを言ってしまったってことだね」

史保理「その結果、どうなったんですか?」

保守美「東京渡辺銀行には預金者が殺到しました。これを『取付け騒ぎ』といいます。『他の銀行も危ないんじゃないか』という噂も出回り、他の銀行にも次々と飛び火していきました」

史保理「たった一言の失言でそんなことが……。片岡さんはその後どうなったんですか?」

左代子「野党から『あなたの失言のせいで大騒ぎになったじゃないか』と叩かれたんだけど、『事実を伝えただけであって、失言ではない』と責任逃れの答弁に終始したわ」

史保理「震災手形処理法案はどうなったんですか?」

右比古「一応は可決成立した。ま、取付け騒ぎのせいで震災手形どころじゃなくなっちまったがな」

台湾銀行の破綻問題

保守美「この取付け騒ぎは一週間程度で収まったのですが、その後昭和2年4月になって・・・」

左代子「1927年4月ね」

保守美「そう、昭和2年4月になって、今度は台湾銀行の経営が危ないらしいという噂が出回り始めます」

史保理「台湾銀行って……台湾にある銀行ですか?」

リベ太「当時の台湾は日本領だったんだよね。台湾銀行というのは、台湾の企業や台湾開発の資金を貸し出していた銀行で、日本政府が主な出資元になっていたんだ。今でいう『ゆうちょ銀行』みたいなものを想像するといいかな」

史保理「その台湾銀行が危なくなったのは、片岡さんの失言のせいなんでしょうか?」

リベ太「意見が分かれるかもだけど、僕は片岡さんのせいだと思うよ。取付け騒ぎが一旦収束したとはいえ、銀行への不信は続いていたんだ。それが台湾銀行にも飛び火したということじゃないかな」

保守美「台湾銀行が破綻しそうだということで、台湾銀行はもちろん、他の銀行も含めて取付け騒ぎが再び始まりました。若槻内閣は急いで台湾銀行を救済するために国費を投入することを決めました。議会が閉会中だったため、若槻さんは緊急勅令でこれを処理しようとします」

史保理「きんきゅうちょくれい?」

右比古「当時、法律を作る際には衆議院・貴族院からなる議会を通さなきゃいけなかった。しかし、議会が閉会しているときは、『勅令』といって、天皇の命令によって法律と同程度の効力を持つものを制定することができたんだ」

左代子「めちゃくちゃよ。法律と同じものを政府が勝手に作れるなんて、議会の存在意義がないじゃない」

保守美「勅令を制定するに当たっては、内閣で案を決定した後、枢密院(すうみついん)で可決する必要がありました。衆議院・貴族院を通さなくてよい代わりに、枢密院を通す必要があるんです」

史保理「枢密院は知ってます! 天皇の諮問(しもん)機関って習いました。天皇の相談役みたいな人たちが揃ってる機関ですよね。でも、枢密院の人たちって、衆議院みたいに選挙で選ばれた人ではないですよね」

保守美「そうですね。天皇が選任した人たちです。まあ実際には天皇というよりも、宮内省あたりが人選しているのだと思います」

左代子「選挙で選ばれた人どころか、頭コチコチの保守的な人たちの集まりよ」

保守美「それは……否めないかもです」

リベ太「まあ、とにかく台湾銀行救済勅令案は、枢密院に提出された。その審議の際に、とんでもない大喧嘩が起こってしまうんだ」

南京事件への対応

保守美「昭和2年4月18日に・・・」

左代子「1927年ね」

保守美「4月18日に、若槻内閣の面々が枢密院会議に出席して勅令案の説明を行いました。そこで、枢密院顧問官の人たちがいろいろと質問をして、審議がなされるはずだったのですが……」

左代子「クソみたいな顧問官が暴れ出すのよ」

保守美「伊東巳代治(いとうみよじ)という顧問官がいたんです。当時70歳」

史保理「あれ? 聞いたことあるような……」

右比古「大日本帝国憲法を作ったうちの一人だな。受験対策としては、憲法草案を作った人として、伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4人は覚えておいた方がいいぜ」

枢密院顧問官・伊東巳代治(wikipediaより)

史保理「その伊東巳代治さんがクソみたいなんですか?」

保守美「当時、若槻内閣の外務大臣は幣原喜重郎だったんですが、伊東顧問官は幣原さんの外交姿勢が軟弱だと言って攻撃し始めました」

史保理「え? 幣原といえば、あの協調外交で有名な人ですよね」

リベ太「そう。その幣原協調外交のもとで、南京で中国人による外国人排撃運動が起こって、日本領事館も襲撃されたんだ。『南京事件』というんだけどね」

史保理「南京事件って、あの南京大虐殺……?」

右比古「おい。南京大虐殺はフィクションだぜ」

左代子「フィクションじゃない! 事実よ!」

保守美「フィクションの部分が一部ありますよ」

リベ太「事実は事実と認めて向き合うべきだよ」

(以後、5分ほど怒鳴り合いが続く)

史保理「あの……すみません、私、変なこと言っちゃったみたいで」

リベ太「疲れたな・・・。今はまだ若槻内閣の話をしているところだから、この話はやめよう。とりあえず、史保理さんが言ってる南京大虐殺というのは確かに『南京事件』とも言うけど、1937年の事件だ。僕の言った南京領事館が襲撃された『南京事件』は1927年の事件だ」

史保理「南京事件というのは二つあるんですね」

保守美「正確に言うと3つあるんですけど、ここで説明するのはやめましょう。とにかく、昭和2年3月に……」

左代子「1927年3月ね」

保守美「そう、昭和2年3月に、南京にあった日本領事館を含む外国公館が中国人に襲撃されたんです。そのとき、幣原外相は『軍事衝突を避けて、平和的に解決しよう』と言って、日本軍を派遣することを許さなかったんです」

史保理「戦争を避けようとしたんですね。立派ですよね」

右比古「弱腰だろ。日本人も1人殺されてんだぞ。軍隊を派遣してでも徹底的にやるべきだろ」

左代子「そういう奴がいるからすぐ戦争になるのよ」

枢密院会議での大喧嘩

リベ太「こんなふうに、南京事件をめぐる幣原外相の対応は、賛否両論あるものだった。実際、右翼などからは『幣原は弱腰だ』と批判されていたんだ。そして伊東巳代治顧問官はかなり右寄りで、幣原に批判的だったわけだ。台湾銀行救済勅令案の審議の場は、伊東顧問官による幣原批判の場と化した」

史保理「え? これって、台湾銀行を救済するかどうかを審議する場でしたよね?」

左代子「そう。それなのに、全く無関係な外交批判を始めたってわけよ。典型的な老害よね」

史保理「それで、どうなったんですか?」

保守美「怒った幣原外相は、『一言言ってもよろしいか』とメモに書いて若槻さんに送りました。若槻首相はそれに『一言程度ならば異存なし』と書いて返しました。それで、幣原外相が伊東顧問官に反論し始めました」

史保理「メモのやり取りって、なんか小学生みたい」

保守美「幣原外相は外交政策について説明し始めるのですが、これが伊東顧問官への強烈な反論になってしまって、伊東と幣原は激しく罵り合ってしまいます」

リベ太「枢密院会議って、昭和天皇も臨席してる会議なんだけどね。そこでやるような話じゃないよね」

保守美「その後、採決がとられるんですが、結局勅令案は否決されてしまいました。会議終了後、廊下に出た伊東は幣原に対して『御前で俺を罵倒するとは、不都合な奴だ』とかみつきます。幣原も言い返して喧嘩になり、幣原は『来るなら来い』と言って腕をまくり始めます」

史保理「えっ。協調外交の幣原喜重郎って、そんなやばい人だったんですか?」

外相・幣原喜重郎(wikipediaより)

右比古「あいつは相当やばいよ。結局周りの人がこの喧嘩を収めるんだけど、幣原の回顧録を読むと『力からいえば私の方が強かったに違いない』とか書いてあって、70歳の老人相手に殴り合う気満々だったらしい」

史保理「やばっ・・・」

左代子「まあ、協調外交を実現するためには喧嘩も厭わないってことよね。ちょっと矛盾だけど」

第一次若槻内閣総辞職

保守美「結局、勅令案が否決されたことで台湾銀行を救済することはできなくなりました。若槻首相は、この金融恐慌を収束する方法を失ってしまったわけで、その理由は枢密院からの内閣不信任にあると判断し、責任をとって総辞職するんです」

史保理「えっ、辞めちゃうんですか?」

リベ太「まあ、枢密院に否決されたってことは不名誉なことだし、枢密院に嫌われるということは、もう何も政策を打てなくなったも同然だから、総辞職するというのは当時としては普通の判断だったんじゃないかな」

左代子「伊東っていう物分かりの悪いじいさんのせいで政権が終わっちゃうなんてね」

リベ太「とりあえず今日はここまでだね。第一次若槻内閣が総辞職するところまで行ったね」

保守美「もう一度、覚えておくべきことをおさらいしておきましょうか」

1 震災手形処理法案の審議中に片岡直温蔵相が失言し、銀行で取付け騒ぎが発生した。これを金融恐慌という。
2 南京で起こった領事館襲撃事件(南京事件)に幣原喜重郎外相が対応したが、右翼から弱腰と糾弾された。
3 台湾銀行救済勅令案が枢密院に否決されたため、総辞職した。

史保理「伊東巳代治とかは覚えなくて良いんですか?」

右比古「絶対要らねーよ」

リベ太「大日本帝国憲法の起草者としては覚えておかなきゃいけないけど、第一次若槻内閣を葬った枢密院顧問官として覚えておく必要はなさそうだね」

保守美「すみません。受験対策と言いつつ、図に乗ってつい細かいことまで紹介しちゃいました」

リベ太「じゃあ、次回は田中義一内閣だね。また来週!」

【あとがき】
というわけで、かろうじて第一次若槻内閣の最後まで辿り着きました。
こんな具合で竹下内閣まで解説していくので、お付き合いくださいませ。

それにしても、日中戦争や太平洋戦争が始まると、右比古と左代子がどんなひどい罵り合いを繰り広げるのか、心配です。

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